エモいを信じない
日々色々な「エモい」を目にする。YouTubeのコメント欄、Twitterのリプライ、Instagram、日々の会話 etc
この言葉にとにかく美学を感じない。自身で定義することを放棄した者がエモいが分かるということを理由に自らを正当化する言葉でしかないじゃないか!
多段式ロケットがセパレートを行い未知を目指すように、誰かが自らの命を分けて創造したものを剥いで、削ったその先に洗練された作品がある。それを色々な媒体を駆使して私たちは己のエゴのために日々消費している。それなのにエモい、それだけなんて失礼じゃないか。音楽を聴くのも絵画を見るのも、自分のためである。心の穴を埋めるため、自分を肯定してもらう為、そんな理由が大半だろう。刺さる、刺さらないなんてのも人それぞれ経験した過去や思想、色々なものが空っぽの体に組み込まれて感じることだから。芸術に触れて何かを感じるのは人間の特権で、とても尊いことだよ。けれどその感じたことを自分すら咀嚼しないままエモいで片付けている。誰かが生み出して世に出してくれた作品を冒涜しているのとさほど変わりないだろう。それなら何も言わない方がマシであるとまで思う。
作者がそれを欲しているのであれば感想を述べるのは消費者からの敬意である。コメント欄に書かれてる1コメとかエモいとか、それって敬意では無いでしょう?そんなの行き過ぎた自己満足だ。
画面の向こうの誰かが今送ろうとしたエモいを紐解いた先にはきっと、人の体には収まりきらない程の芸術がある。それを放棄しエモいとだけ残して劇場を去って、芸術を知らない生活を続けるなんて寂しい。強大なソレにアテられるのはしんどいから、知らない方が幸せなのかもしれないけれど。
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