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医者の仕事は美術なんぞより崇高なんだ!(小説『ザ・民間療法』002)
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中学の時点で人体のからくりに触れたとはいえ、その後の私の興味は、絵を描くことに向かっていた。地元の進学校に入学した私は、その興味のまま、何となく美術クラブに入った。特に強い思い入れがあったわけではない。もともと絵を描くのも苦手だった。ところが入部後に初めて描いた油絵は違った。
「天才の作品とは、このようにして生まれるものか」
そんな大それた錯覚が生まれるほど、自分の実力をはるかに超越した作品が勝手にでき上がっていたのだ。描いた私はもちろんのこと、周囲にいた先輩や先生も「あっ」と声を挙げるほどの出来栄えだった。そしてこの作品は、地方の美術展でいきなり最高賞を獲得したのである。
ところがそこからあとが続かない。いくら同じように描いても、私の筆先からは本来の実力通りのものしか出てこないのだ。それでも、あの最初の作品に取り組んでいるときの高揚感は、忘れようとしても忘れられるものではなかった。
あれはランナーズ・ハイのようなものだったのか。ゾーンに入った状態とでもいうのかもしれない。もう一度、あの感覚を再現したい。そう考えた私は、ひとまず美大への進学を目標にすえた。
受験とは単なるテクニックである。そのテクニックを駆使して、何とか東京にある武蔵野美術大学に合格した。その知らせを聞いて、母の往診をしてくれた例の山本院長が、「祝いだ」といって酒に誘ってくれた。いくら子供のころからの顔なじみでも、それまでは医者と患者の関係でしかなかった。だからそれが、私にとっては白衣を脱いだ医者との初めての対面だった。
私には2つ年上の兄がいる。彼が医大に進学していたので、先生は私も医大志望だと思っていたようだ。それなのに美大に進学すると聞いて、私は脱落したのだと考えたらしい。酔いが回るに連れ、やがて先生の口からは徐々に本音がこぼれ始めた。
「私ら医者は、人の命を救う大事な仕事をしている。それに比べて絵描きなんぞが、人の命を救うようなことはない」
そういって、医者の仕事は美術より崇高だということを、私に向かって長々と説き続けた。
「そうだろうか。それなら、どうしてうちのバアさんの命を助けられなかったんだ」
そんなことを腹のなかでつぶやきながら、それをあえて口には出さない分別は私にもあった。彼の論理など、家で奥さんに向かって「オレは外で金を稼いでいるのに、オマエは家にいて云々」といっているようなものだ。その姿は、高校を出たての私の目にも、ひどく幼く見えた。
しかし、彼の言い分は核心を突いていた。果たして美術には、医学と肩を並べられるほど明確な目的があるだろうか。それは私が何を描くか以前の問題だ。この美術の存在意義に対する疑問は、いつまでも消化できずに私のなかに残り続けた。そして大学での4年間を費やしても、結局その解答は得られなかったのである。
最初の絵に向かっていたときの高揚感も、その後の私の作品に再び現れることはなかった。やはり山本先生がいった通り、美術は医学を超えることなどできないのだろうか。(つづく)