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あめ玉 ー詩ー【しろねこ社 Painter kuro 詩評】びーれびしろねこ社賞応募作品

あめ玉一粒で 
どうしてこんなに 
幸せな気分になれるんだろう 

綺麗な色が隣り合って 
まるで手毬のようなあめ玉 
見ているだけで楽しくなる 

可愛いからと飾ってみたり
するとくっついて 
それを手で取るのが楽しい 

最近あめ玉がいくつあっても足りない 
誰かにあげてるわけじゃない 
口に入れるとガリッとかじる癖がついた 
きっとそのせいかもしれない 

友達からのメールが途絶えて 
青い空の時も何故か傘が必要で 
気がついたら地球の裏側まで穴を掘って 
トンネルの中を行き来してるだけの日々 

自分の心がどんどんどんどん離れて 
朝目が覚めた悲しみがまた一粒 

これが最後でありますように

✴︎✴︎✴︎

これは、びーれびしろねこ社賞に応募した作品の一つです。結果は伴いませんでした😁
詩評して頂けるチャンスがあったのでお願いしましたぁ!!
丁寧に丁寧に読み砕いて頂いて、バラバラだったあめ玉が大きな一つのあめ玉になった。
そんな気分です。本当にありがとうございます❤️

cofumi「あめ玉」詩評

これは美しい詩だ。優しい詩だ。そして悲しい詩だ。

cofumiさんの詩は自己の精神的危機すら美しく優しく戯画化する。

そして美しく優しく昇華されればされる程その詩は一層悲しくなるのだ。

「最近あめ玉がいくつあっても足りない
 誰かにあげてるわけじゃない
 口に入れるとガリッとかじる癖がついた
 きっとそのせいかもしれない」
僕達は日常を生きる。日常を生きることは時には大変辛いことだ。だから「あめ玉」を齧る。
まるでドラッグのように「あめ玉」が必要になる。辛ければ辛いほど、苦しければ苦しいほど「あめ玉」を求める。

直載な言葉でもなく
難解な例えでもなく
「あめ玉」を選んだところに、cofumiさんの詩人としての天性の美しさ、優しさがある。

「朝 目が覚めた
 悲しみがまた一粒
 これが最後でありますように」
詩人の願いはまた僕達の願いでもあるが、おそらく次の朝もまた同じように願っているのだろう。

生涯、孤独の中で生きて、自分のために詩を書いたディキンソンのように、cofumiさんもまた自分のために「詩」という「あめ玉」を書いているのだろう。

「きょう見せられるのはこれだけ
 これと、あとは私のこころ」
(エミリー ディキンソン)

しろねこ社 Painter kuro

#詩  #ポエム
#しろねこ社
#感謝と共に

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cofumi(こふみ)詩*音楽
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