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闇系彼氏に首ったけ-ちょっとした悲劇と美術試論-


恋は突然に

20XX年1月8日、AM5:25。
画面が完全にブラックアウトしたノートパソコンの前で、私の頭は真っ白になっていた。

神様。
確かに私は、この『彼氏』様と、2年間別れたいと言い続けてきました。
歴史に名を残すメンヘラで、サイコパスで、クッッッッッソきまじめで、超病み系すぎる『彼氏』様と、別れたいと願ってきましたよ、ええ。ええ。そりゃあもうツイッターのタイムラインを毎日「もうむり」「つらい」「逃げたい」といったワードの連続で荒らしまわるくらい、切望してきましたとも。
別れたかった。
早くお別れしたかった。

だがしかし、今日、いま、この瞬間ではありません!!!!!

私は、相変わらず床に散らかした諸々の上を滑りながら廊下へ飛び出し、階段を駆け上がり、ノックもせずに弟その1の部屋のドアを勢いよく開けると、大声でパソコンを貸してくれ!と叫んだ。冬の早朝、太陽が顔を見せるにはまだしばらく時間がある。大学4年生の弟その1には迷惑すぎる目覚まし時計だったと思う。けれど弟その1は天使だった。どうぞ~とゆるい声で私の不作法を許してくれた。私はまた騒々しく階段を下りるとリビングへスライディングしながらバッサバッサと書類を掻き分け、命綱のUSBを見つけ出した。そして、ダイニングテーブルに据え置かれている弟その1のパソコンを鷲づかみする。

うたた寝した私のバカ!最後に保存したのいつだ!?いや夜中に1度取り込んだ気がする!気がするじゃなくて取り込んでいてくれ昨日の私!!

取り込んでないじゃあああああああああああああん!!!!!

入っているデータは2日前、1月6日のAM2:54。
そこからはもう必死だった。
〆切は、PM3:00ジャスト。バスの時刻と停留所から校舎までの距離、製本に掛かるであろう時間、そもそも製本室が空いているかどうかの賭けと、ホームプリンターの限界突破力、2日の間に手直ししたはずの部分を瞬時にやり直す作業と、寝る前に「ここは直さんとなー」とぼんやり考えていたことを全て思い出すという行為を、私は一気にやった。火事場の馬鹿力どころではなかった。

何をどうしてどうやってどう解決したのかさっぱり覚えていないのだが、PM2:45、私は大学にいて、学務課前の共有スペースで項垂れていた。

真新しく改装されたその場所は、メンヘラでサイコパスできまじめで超病み系の面倒臭すぎる『彼氏』様と別れ話をするにはあまりにも明るくきれいすぎて、私はこれからの私たちを案じて非常に暗澹たる気持ちになった。まじか。これでお別れするのか。私、こんな結末は予想していなかったよ……



というので出来上がったのが、


修士論文である。

人生であれ以上のピンチは、今日まで他に存在していないと思う。その後に待っていた口頭試問は、PM6:00に開始してPM7:00過ぎに終わるという、ほとんど1時間の愛の鞭(ものは言いよう)だった。この出来事は、私のトラウマ中のトラウマになっている。そのため、社会人になって以降、勤務中の私のスケジュール管理とバックアップはほぼ完璧である。

そんなふうに最後まで散々だった『彼氏』様との関係性なのだが、そんなふうだったからこそなのか、未だに私は、別れたはずの『彼氏』様を気にしている。メンヘラだったこととか、サイコパスだったこととか、まじめすぎたところとか、それらが全部ごった煮になったせいで超病んでいた姿とかを、ふと、思い出してしまうのだ。だから聞いてほしい。私の『彼氏』様が、いかに面倒臭かったのか。

これは愛と情熱と恨み辛みとちょっとした悲劇と斜め45°からのフォーリンラブな話である。



その男、複雑につき

私の『彼氏』様だった男の名前は、ゴヤという。
スペイン美術における巨匠の一人で、18世紀末から19世紀に掛け、82歳で他界するまで、息長く作品を描き続けた画家である。

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版画集『ロス・カプリチョス』より
第1番《フランシスコ・ゴヤ・イ・ルシエンテス、画家》

* ゴヤの有名な自画像

ここから先のしばらくは、ゴヤの来歴になる。
知っている人も多いだろう、何せ私の『彼氏』様は世界的有名人だからだ。有名すぎるせいで、博士前期課程1年の4月、私はこの男とお付き合いを始める羽目になったのだ。入試の研究計画は、聖母マリアの地域比較史で提出していたのに……。というゆえもあり、出会いからすでにあまり快く思っていなかった私なので、来歴は来歴でも、ゴヤについて学びながら私がツッコまずにいられなかった主観と曲解に基づいた説明である。


ゴヤは、1747年、スペインの寒村フエンデトードスに生まれた。洗礼されたときの名前は、フランシスコ・ジョセフ。ジョセフというのはフエンデトードスがあるアラゴン地方の読み方で、王の膝元・首都マドリードがあるカスティーリャ地方風に言い換えると、ホセである。

ゴヤの父親は鍍金師で、彼は芸術的環境で幼少期を育った(らしい)。14歳の頃、サラゴーサで地元の画家に師事すると、大画家を目指すようになる。「画家」ではなくて「大画家」なこの辺からもうすでにめんどくさい感じしかしない。「ゴヤは若い頃から才能を評価されていた」とする研究者の論述があるが、実際のところの評判は不明だ。ゴヤは16歳から職業画家としての活動を始め、村の仕事を請け負っていたが、マドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーというところの奨学生選抜試験には17歳と20歳の2度にわたり落選している。
例えば、まさしく大画家であり、ゴヤの特別な手本だった先人ディエゴ・ベラスケスは、18歳でフランシスコ・パチェーコ(スペイン美術界の超偉い人)から独立している。サン・フェルナンド以外でも、ゴヤの作品が好く評価された記録は見つけられず、若き日のゴヤが上手かったとする根拠は私にはイマイチ謎である。

24歳でイタリアのローマへ学びに行き、29歳になって兄弟子の手引きでマドリードへ働きに出て経験を積み(タピスリーの下絵を描いていた)、ようやく偉大なる画家への階段が見え出したのは、1786年、ゴヤが40歳になったときだった。国王カルロス3世付きの宮廷画家になったのだ。(2020年の先進国における平均寿命ならいざ知らず、18世紀後半のスペインで40歳といったら、普通は中年ではなく老年に差し掛かっている。遅咲きの根性は見習いたい。

1788、サン・イシードロの牧場

《サン・イシードロの牧場》1788年


ゴヤがカルロス3世に仕えた期間は短かった。1788年には新王カルロス4世が即位し、ゴヤは引き続き宮廷画家として作品制作を行っている。宮廷画家になるこの頃のゴヤは人生を謳歌し、かつ、大分調子に乗っていた印象がある。その理由は、彼が自ら名乗った名前である。

カルロス3世付きになる8年前、1778年の友人サパテールへの手紙などにおいて、ゴヤは「フランシスコ・デ・ゴヤ」と署名をしている。私はこれを、ゴヤの黒歴史のペンネームと呼んでいる。

先に記したとおり、ゴヤは寒村で生まれた。庶民なのである。だが、名と姓の間に挟まれている「デ(de)」というのは、貴族性を示すものなのだ。ここにはベラスケスが関係しているとの考察がある。ゴヤが憧れたベラスケスは国王によって貴族に叙され、貴族化のために姓に「デ」が加えられた。ゴヤが記した「デ」の一音には、大画家を志し、宮廷人や知識人から制作を請け負うようになったこの頃のゴヤの社会的地位の向上や、自尊心が垣間見える。
でも、気が大きくなりすぎではないかと思うのだ。なに勝手に貴族姓を名乗ってしまっているのこの人。しかもこの名前を自称したときのゴヤは、32歳なのである。どう思うよ???やばくない?????後述するが、1799年に署名を変えているところを見ると、私はやっぱり黒歴史ペンネームだと思わざるを得ない。

1792年、ゴヤは謎の病気を患い聴力を失う。症状として、難聴及び平衡感覚の乱れのほか、激しい頭痛があったようなので、脳神経系の病気が疑われている。院生当時はふーんと思っていたが、メニエール病を罹患した今の私はこの点について大変同情している。難聴も平衡感覚狂うのも超つらいじゃん。そこにさらに頭痛が加わってそれでも心折られず絵筆を握ろうとしていたとか強すぎでは?さすが大画家を志す男。

病を経て人生観が変わったのか単にそれまでのように絵を描けなくなったのか、このあたりからゴヤの描く作品の雰囲気が変わっていく。『日傘』(1777年)に代表されるようなロココ調の華やかさが消え、色調は暗く、筆跡は大胆かつ不敵になり、荒々しさが増していくのである。

なんとなく怪しいものもたくさん作り始める。
パトロンの1人であった国務長官マヌエル・ゴドイのために、西洋美術史上初の「ただの裸婦像」こと『裸のマハ』を制作したのもまた、1800年頃の話だ。(美術界の暗黙のルールとして「ただの裸婦」を描くことは禁じられていた。スペインに限ったことではないが、この国はとりわけカトリックの教義に厳格だったので、これはかなりまずい絵だったはずだ。後年、異端審問にかけられている。)

1776-78、日傘

1799-1800、裸のマハ

上《日傘》1777年
下《裸のマハ》1800年頃
* ゴヤが描いた2枚のマハ「裸」と「着衣」を並べると、男性の鑑賞者の多くは裸の前に立つという研究結果を見たことがある。興味深い。


なんとなく怪しいものの代表格は、最初の版画集である。1799年、ゴヤは、私的な版画集『ロス・カプリチョス』を発刊している。同人誌である。1789年のフランス革命を端緒に、ヨーロッパ全体が危機的な時勢になっていくその不穏さの只中で、1795年からゴヤは本作に着手し始めた。

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版画集『ロス・カプリチョス』より
第43番《理性の眠りは怪物を生む》

* 机にうつ伏せになる姿勢は、古代ギリシャ以来、学者や芸術家に固有の気質といわれるメランコリー(憂鬱質)を表すらしい。デューラー《メランコリアⅠ》に描かれた立方体との関連性を考察した論文も読んだ(家のどこかにある)。


この版画集では「中世以来スペインに脈々として残っていた悪習や偏見、失政や異端審問、あるいは貴族や聖職者といった支配階級の腐敗・堕落が、寓意や擬人的動物を用いて諷刺されている(*村上哲[1986])」のだが、シュールすぎて気味が悪い。本人曰く「最も嘲笑の対象に適すると共に作者のファンタジーを練るのに適したテーマを選び出して制作(*『ゴヤの手紙』[2007])」したらしい。ちなみに27部を販売して、240部ほど売れ残った。売り始めてから急に我に返ったのか、異端審問所の訴追を恐れて自己回収したのである。
だがこの残部、原銅版80枚とともに、1803年には国王へ献上されている。支配階級を諷刺していて、自分でも「これはやばい」と思った同人誌を献上とは……?なお、黒歴史のペンネーム(「デ」を付けた名前)はこの段階で消滅させたようだ。

怪しい同人誌を販売する一方、1799年は、ゴヤが主席宮廷画家の地位に就いた年でもあった。おめでとう、偉大なる画家!画壇の頂点だ!

――という夢も束の間のことだった。10年も経たないうちに、1808年、フランスの皇帝ナポレオンの手勢がスペインへ侵攻してくるスペイン独立戦争が始まる。仕えていたスペイン王家の面々が国を追われると、ゴヤは侵略者のために仕事をし始める。――話は逸れるが、ジャック=ルイ・ダヴィドが制作した、ナポレオンの超有名な白馬に乗った肖像画をご存じだろうか。きっと誰もが1度は見たことがあるはずだ。実際は、白馬で山越えはできないから乗っていたのは驢馬だったらしいのだが、これはナポレオンの話で私が1番好きなものである。皇帝陛下のイメージ戦略に笑ってしまうのだ。

他方、画壇の頂点とはいえ、ゴヤはそんな器用なことができる男ではなかった。私は、もしもゴヤに器用な処世術があったなら老年まで夢を追いかけていないだろうと思っている。

ゴヤには人一倍画業への執着心があったのかもしれないし、その生真面目な性格から廷臣としての行動を優先したのかもしれない。ナポレオンの兄ジョセフがホセ1世として王位に就くと、ゴヤはホセ1世に忠誠を宣誓したり、ナポレオン美術館のための作品選定に協力したり、あるいは戦争に介入してきたイギリス軍のウェリントン伯爵の肖像画を描いたりしている。やがてナポレオンがロシア遠征に失敗したことを契機にフランス軍が国土から撤退すると、今度は、復位する新王フェルナンド7世のために作品を制作したいと自ら申し出て、2枚の連作を描き上げた。

新王に対するゴヤの行動は、一つには、親仏派(ナポレオンの政権を支持した人々)に対する戦後の粛清を見越してのものだと言われている。――言われているのだが、ゴヤの真意は奈辺にあったのか、連作はどこをどう見ても新王を顕彰するものには見えない。お祝い感ゼロ。

1814、1808年5月2日

1814、1808年5月3日

上《1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦い》1814年
下《1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺》1814年

* 「ヨーロッパの暴君〔ナポレオン〕に対する我々の輝かしき叛乱における最も注目すべき英雄的な偉業あるいは場面を、絵筆をもって永続化したい」とゴヤは書簡に書き記している。彼が考える英雄的偉業はスペイン民衆が起こしたものであり、新王に対するものではなかった。


ゴヤが本作の制作を申し出たもう一つの理由には、戦争による経済的困窮が指摘されている。こちらには確証がある。制作には経費が掛かっていますので何卒すぐのお支払いを!分割払いで構いませんから!という支払い請求の手紙を、1814年2月24日付で、ゴヤは新政府へ宛て送っているのである。
クリエイターの方なら、これは「わかりみ~」かもしれない。だが、作品を制作させてくれと言い張ったのはゴヤであり、自ら申し出たにもかかわらず許可した意図とは異なる作品が仕上がってきたときの政府の反応を想像するだに、私は神妙な顔になる。ただでさえ戦後で財政が逼迫しているときだったからだ。お金がほしいなら素直に祝賀っぽいの描けばよかったじゃん。

この2枚の連作に関する記録は、ゴヤの制作許可申請書とそれに対する政府の回答、及び、前述の1814年2月24日付の手紙以外には残っていない。フェルナンド7世がスペインへ帰還する式典に飾られたかどうかも不明であるし、ゴヤに対して資金援助や報奨があったかどうかもわからない。

生活が苦しかったことはあまり変わらなかったはずだが、1819年に、ゴヤはマドリード郊外に別荘を購入した。通称「聾者の家」である。同時に、王宮の仕事からはほぼ完全に退いている。経済的に窮乏しているのに別荘を買いなおかつ仕事をしなくなるってどういうことなのか……(戦時中、敵国の将軍らの肖像を描いていたゴヤは新政権の中できわめて不安定な立場にいたため、王宮と距離を取らざるをえなかったのではないかと言われている。)

1820年から1824年の間、「聾者の家」においてゴヤが制作した作品群は「黒い絵」と呼ばれる。究極に闇堕ちしたやばいやつシリーズ。サロンや食堂の壁面をグロテスクな作品で飾ろうという発想は最早正気の沙汰ではないと凡人の私は思うのだが、この頃同棲していた家政婦のレオカディアはどのようにその風景を見ていたのだろう。ゴヤ自身、当初はこれらの暗く重苦しい作品を想定していたわけではないようではある。

1820-23、サン・イシードロの巡礼

《サン・イシードロの巡礼》1820-1823年
* 1788年に描かれた《サン・イシードロの牧場》とは全く異なっている。


「黒い絵」を14作品ほど制作し終えた1824年、78歳になったゴヤは、フェルナンド7世が始めた自由主義者や反体制派への弾圧を逃れるため、フランスへ向かう。プロンビエールでの湯治を理由に休職を願い出、ボルドーに居を構えた。1826年に一時帰国すると、青年のあの日から憧れつづけた(?)宮廷画家の職を辞している。まだ辞職していなかったことにびっくりだよ。

2年後、ゴヤは、ボルドーの地で82年にわたる生涯を終えた。死の間際でも絵筆を持とうとしていたと語られている。



それが人間らしさなのかもしれない

と、多方面に叱責されそうなほどものすごく曲解して簡略化した一生を書き記しても4,000字に達してしまった。恐ろしい男だ。ゴヤは本当に恐ろしい男だった。生涯を考察するだけでは論文として成立しない(と指導されていた)ので、私が格闘したのは彼の人生そのものではなく、独立戦争時の作品と図像学的解釈及びその社会的環境だったが、画業とそれまでの歩みなくして研究できるものではなかった。つまるところこのとおり、私は一通りさらったのである。

19世紀及び20世紀前半におけるゴヤ研究は、社会史的文脈を踏まえず、痛烈な批判精神の窺える版画や素描に依拠したものが多かった。1990年以降の研究では、彼の性格や精神性について、これらはあまりにも「単純化されすぎている」と言及されている。
単純化とは、ゴヤという男が啓蒙主義者(理性による知を重んじる)であり、反教権主義者(宗教的なものを否定する)であり、あるいは、親仏派で、自由主義者(フランス革命に始まる自由と平等に基づく)である、という「定型化されたイメージの形成」である。「反体制的(絶対王政のような、旧来の社会秩序のあり方を支持していない)な抵抗の画家」のような言説は、ウェブで調べると今でも大量に読める。

けれど来歴の中で示したとおり、ゴヤは、思っていることと言っていることとやっていることがたびたび食い違っている人物であり、むりやり一貫性を持たせようとするとどこかで違和感が生じるのである。

最初の版画集、いろいろと諷刺した挙げ句、自分で「やっべぇ!」と心配になって自己回収したのに、原銅版と残部を国王に献上しているくだりとかよくわかんなくない?

保身のために「新王帰還に際して作品を制作したい」と自ら申し出て、厭味満載の作品を仕上げ、なおかつ制作費せびってるのどういうことだよ???

「黒い絵」シリーズで最も有名な『我が子を喰らうサトゥルヌス』とか、食堂の壁に描いていたんだよ。こわくない???????私は怖い!!!

1819-1823、我が子を喰らうサルトゥヌス

《我が子を喰らうサトゥルヌス》1823年頃


ゴヤは『理性の眠りは怪物を生む』といった啓蒙主義的な作品を描く一方、魔術的素養のある作品や宗教画を制作し、ホセ1世に忠誠を宣誓したかと思えば、粛正を恐れてフェルナンド7世に申し開きをしている。彼は、様々な人物から一定の距離を保ち、自らの主義主張と宮廷画家としての仕事を分けて考え、その時々で態度を変えたのだ。カメレオン・ゴヤである。論文審査でも、副査に「ゴヤの態度に一貫性を見出す必要があるのかどうか」を指摘されたのは、大変に忘れがたい。

ゴヤが、フエンデトードスで立身出世を夢見るあどけない少年(だったかどうかは知らないが)の時分から「こいつ、ちょっと面倒臭いのでは……?」と薄ら感じていた私である。この男が『彼氏』様となり、お付き合いを始めて1年経過する頃には、ほらぁあぁあああぁあああぁああやっぱりめんどくさいじゃああぁぁああぁああんんんんんん!!!!!と日夜絶叫することになった。教授方はそろって「スペイン美術史をやるのにこれ以上面白いテーマがありますか?」とゴヤ研究に大変乗り気で前向きだったので、とても私からお別れを言い出すことはできず……20XX年1月8日、AM5:25。

死に体になりながら書き上げた論文のデータがよりによって提出日当日に一部消失したときの私の絶望感を察してくれ。



そんな面倒臭いところが好き?

パソコンがブラックアウトしたことについては、全面的に私の自業自得。それはともかく、ゴヤの魅力はこのように一口に語り尽くせない面倒臭いところにあるのだと思う。泣かされまくった男へこんな告白をしてしまう私のマゾヒストぶりも大概だけど、修士論文から解放されるときにようやく恋に落ちていることに気づいたのである。

とある現代アートの美術館に勤務していたときのことだ。「何を意図して作っているのか一目でわからない」とか「不気味なだけで美術としてのよさが理解できない」とか、作品の趣旨を把握できないことについてのネガティブなコメントを、私はお客さんによく言われた。中には「私の頭が悪いからなんだと思うけど」と口にする人もいたし、言葉にはしなくても、しょっぱいものを食べた表情をする人は少なくなかった。あ、わかりますよその感じ。

だけど、安心してほしい。私は2年間みっちりゴヤの作品を見続けても、そこそこ文献を読みあさっても「意味が……わからん……」とツイッターで愚痴を呟き続けたし、今、このnoteを書きながらも、やっぱりゴヤはわからん!と開き直っている。加えて、別にゴヤの作品を美しいともすごく良いとも感じていない。メンヘラでサイコパスでクッソきまじめで超病んでいる、意味のわからないところが面白いよね……!という一心だけでこの文章を書いているのだ。これはきっと、少女漫画でイケメンが言う「おもしれー女」に似た感情ではないだろうか。知らないけど。

たった1日、どころか、せいぜい1~2時間程度の鑑賞で、作品のよさを「パッと理解できる」のはその道のエキスパートくらいだと私は思っている。わからないのなんて普通である。私もわからない。わからなくていいのだ。わからないときに「どこがわからないんだろーなー」とぼんやり考えることが大事なのである。わからなさから時にラブが生まれるのだ。

1816、鰯の埋葬

《鰯の埋葬》1816年頃
* ゴヤの油彩画の中で、私が最も奇っ怪だと思っている作品。素描と版画は不思議でシュールなものが多すぎるので省略する。



最後に伝えておきたいこと


データはこまめにバックアップを取りましょう。


幸運にも私には「加筆修正したデータを上書き保存しない」という習慣があったので、1月6日AM2:54の最終校正前のデータが生きていた。首の皮一枚ギリギリである。げにも悪夢すぎる体験だった。

参考文献
〔論文〕
・村上哲[1986]「ゴヤの銅版画集“ロス・カプリチョス”-熊本県立美術館所蔵本の調査報告を中心に」九州芸術学会誌『デ・アルテ』2, pp.63-78.
・私の修士論文
〔図書・図録〕
・大高保二郎/松原典子編訳[2007]『ゴヤの手紙 画家の告白とドラマ』岩波書店.
・国立西洋美術館[1999]『ゴヤ 版画にみる時代と独創展』読売新聞社.
・国立西洋美術館[2011]『プラド美術館所蔵 ゴヤ -光と影』読売新聞社.



ねぇええぇええぇえぇこの記事を仕上げる寸前にブラウザがバグって後半の文章が2回ほど飛んだんだけど!??!何で!??!!?やっぱり私とゴヤはそういう運命なの!?!!!?!?
紙に印刷しておいてよかった!人間は学習するのだ!(2回打ち直した)

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