だから私は「馬と鹿」を聴く
これが愛じゃなければなんと呼ぶのか
僕は知らなかった
米津玄師『馬と鹿』は、夢をあきらめられない人の歌だ。
成功していない、勝利していない、どこにも辿り着いていない、だけど夢を捨てられずに、夢のために生きている人の歌だ。
夢追う人の歩みはけっして明るくない。前途洋々なんかじゃない。努力がかならず報われるわけじゃない。夢は、だいたいいつも、痛いことばっかりだ。叶わないことのほうがきっと多い。花はひらくか。ひらかないかもしれない。それでも「僕」は、あきらめきれずに追いかけている。馬鹿の一つ覚えみたいに。
「僕」が見せるまなざしの毅さは、何なのだろう。
人の夢を応援する楽曲は、枚挙に暇がない。私のiTunesにも、大量にダウンロードされている。明るく高らかに、多くのアーティストは未来を語る。頑張る人の背中を押して、その努力を褒め称える。降り注ぐ光、汗と涙、共に駆け抜けていく風の匂い。大丈夫、キミならきっと大丈夫。成功する。でももしも負けてしまっても、キミの努力はむだにならない。――「夢の応援歌」といえば、これまでずっと、そういう楽曲を聴いてきた。
『馬と鹿』は、全然、これっぽっちも、大丈夫なんかじゃない。
歪んで傷だらけの春
麻酔も打たずに歩いた
「僕」は、最初から傷ついている。麻酔を打ってもおかしくないほどの痛みを引きずって歩いている。春、つまり花咲く季節が来ているのに、少しの爽やかさもない。道をゆく姿が負けている。ボロボロである。
仄暗い曲調、やさしいような冷たいような、中途半端ななまぬるい音。声の気配は沈んでいて、展望は見えない。花ひらくどころか、「噛み終えたガムの味」や「疲れたその目」という表現で、夢は叶わないもの、と言って聞かせているようにさえ思える。
まだ味わうさ 噛み終えたガムの味
冷めきれないままの心で
疲れたその目で何を言う
傷痕隠して歩いた
「僕」は、栄光ではなく、その背後で色濃く堕ちた敗北の影をばら撒き、歩く。「気づいて欲しかった」と、過去形の独白には、弱音が滲んでいやしないか。その瞬間はまさに、立ち止まりそうだ、と思う。――あきらめてしまったほうが楽なのではないか。やめてしまえばいいのではないか。夢を追うことは痛いだろう、つらいだろう、悲しいだろう。
心の隙間に浮かびあがった自分の弱さに、「僕」は言う。
まだ歩けるか 噛み締めた砂の味
終わるにはまだ早いだろう
悲しんだ涙の海であきらめに飲み込まれそうになりながら、「あまりにくだらない」と自嘲しながら、夢追う人は「奪えない魂」を抱えて歩く。
何に例えよう 君と僕を 踵に残る似た傷を
晴れ間を結えばまだ続く 行こう花も咲かないうちに
「君と僕」そして「踵に残る似た傷」――夢を追いかけ、足を痛め傷をつくりながら、それでも歩いている私たちに声が掛けられる。ほんの少し、光がこぼれる瞬間を辿っていけば、まだ続けられるだろう。夢をあきらめられない想いに、花が咲くのを待っていないで、行こう、と手が差し出される。
曖昧な未来を見せない。成功も、勝利も、約束しない。努力の美しさもたたえない。頑張ったやつがえらいなんて言わない。あきらめない姿だけ、どんなに傷だらけの敗者であっても、今ここであきらめずに歩いていくそのさまだけを支持している。「僕」は、夢をあきらめられない、その愚直さを尊んでいる。
冒頭から、全然、大丈夫なんかじゃない「僕」のまなざしの毅さの理由に気づく。胸が苦しくて、狂おしい。静けさに、激情が迸る。
これが愛じゃなければなんと呼ぶのか
僕は知らなかった
呼べよ 恐れるままに花の名前を
君じゃなきゃ駄目だと
夢を追いかけながら、夢が叶わないことを恐れている。花咲かずに終わる自分を考える。それでも「呼べよ、君じゃなきゃ駄目だと」。そうだ、そうなのだ、この夢でなくてはだめなのだ、私は。あきらめずに歩くしかない。
鼻先が触れる 呼吸が止まる
痛みは消えないままでいい
すごいな、すごいよな、と思う。ストレートな表現を用いず、明るいメロディを採用せず、持てあました悔しさや弱さを吐露して、その胸を強く叩くみたいにして人を鼓舞する「馬と鹿」の歌詞。初めて聴いたときから、何度となくうち震えている。聴けども聴けども、声を上げて泣いている。泣いて泣いて泣きまくったら、明日はまたがんばろうと決意する。
私は、馬鹿でいい。
夢がある。この痛みがあるから、生きていける。
あまりにくだらない 願いが消えない
やまない
※記事中引用:米津玄師「馬と鹿」