破滅するにはまだ早い
お気に入りのカフェで、推しにファンレターを書く。期間限定のイチジクとぶどうのパンケーキに、普段は四季春を頼むのだけど、めずらしくジャスミンティーを頼んだ。夏のうちに送るつもりだったので便せんは100%夏模様だ。彼女が手に取るときには秋も随分深まっていることだろうに。文章の中で謝っておく。ああ、字が汚い。私はあらためてペン字練習をするべきだ。
友だちに手紙を書くようにファンレターを書く。みんなのことを聞かせてもらえるのが嬉しいと言っていた顔を思い出しながら言葉を選ぶ。静かにゆるやかに、心が安らいでゆくのがわかる。人を想うってこういうことなんだろうなという気がする。手紙を出したいと思う相手がいるのは、素直にとても幸せだった。
思えば4月からここまで、鉄壁の甲冑をまといその重量に潰されそうになりながら駆け抜ける生活をしていた気がする。私は日常に傷ついてはならなかったし泣いたら負けだし折れたら死ぬ、目がまわろうが耳がきこえなくなろうが何日も眠れなかろうが止まったらそこが私の限界にして終焉であり、だからもっと、もっともっともっと先まで行くしかない、破滅にはまだ早いのだと、言い聞かせていた。夏季休暇を取らずにいたのは単純に忙しかったせいもあるが休んだら動けなくなると思っていたからだ。自己愛に満ちた私の脆弱な精神はあまりに容易く世界に共鳴しすぎるので、コロナ禍で疲弊する人びとの声を受け止めながら、好きな人の死を現実だと認識しながら、この惨憺たる有様の日常を生きてゆくには、ぎりぎりと咽喉を締め上げて稼働し続けるしかなかった。
便せんを選び、同封する贈りものを選び、書く場所を選び、書くために心身を整えるものを選び、何よりも言葉を選んで『手紙』を書く。選択という行為を億劫に感じることもなく、手紙の向こうにいる人を想う、丁寧な静謐によってようやく、それでも私は息をしていたのだと実感した。
蹴飛ばして噛み付いて息もできなくて
騒ぐ頭と腹の奥がぐしゃぐしゃになったって
衒いも外連も消えてしまうくらいに
今は触っていたいんだ 君の心に
- 米津玄師「ピースサイン」
TEENAGE RIOT、LOSER、馬と鹿、ひまわりもどれも好きだけれど、気づくと結局ピースサインを聴いている。コロナ禍に陥る前からずっとピースサインを聴いているしコロナ禍で過剰に仕事をしていたときもずっとピースサインを聴いていたし今もとりあえずずっと私は米津玄師のピースサインを聴いていたいと思う。ただ、何がそんなに好きなのかはよくわからない。言葉にできないほどの感情ををもてあまして私は今日もピースサインを聴いている。STRAY SHEEPも初回限定おまもり盤を予約していたのに、その後Blu-rayにピースサインがセトリに入ったライブ映像が収録されると知り、アートブック盤も買ったのだ。なにひとつPEACEではない中でピースサインを聴き続けてきたし聴き続けている。
振り返れば、今年の私はだいたい米津玄師の曲と一緒にいて、やたらと米津玄師の音楽の話を書いてきた。どこかしらに。書く余地さえあればどこかしらに。リンクを張った記事以外でももはや習性のごとく彼の言葉を引いている。聴いて聴いて聴き倒して聴きまくって、彼の言葉を咀嚼して飲み下して五臓六腑に染み渡らせてどうにか、苦痛と忙しなさの波間で見失いそうになる私の感情を拾っていた。この日々は、推しにファンレターを書くその丁寧な静謐とは真逆の葛藤と喧騒であるのに、なんだかこれだって『手紙』じゃないか。憤りながら苦しみながら私は彼の詞を受け取り、込み上げる慟哭を押し殺してけっして彼の手には渡らぬ手紙を認め続けている。
2020年の日常は、振り返ればあっという間だったように見えるけれど、やっぱり長い時間だったとも思う。あと3ヶ月。5年間の自分と別れるまでにはあと5ヶ月。何を残せるだろう。私は、地続きで生きてゆく明日の私に、どんな手紙を手渡せるのだろう。