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題名のないわたしたち

 なに聴いてんの、上から射し込んだ影が喋った。右耳だけに嵌めたワイヤレスイヤホンを外しながらわたしは、米津玄師、と答える。ぐちゃぐちゃに散らかったトートバッグの中を片手で漁って、イヤホンケースを探り当てる。こうしてものを手探りするたび、ああ、新しいカバンが欲しいなあと思う。中々好みのものにめぐり会えずにいる。くたびれて雑然としたバッグは、そのまま、今のわたしのようだ。

「Lemon?」

 LOSERだよ、と笑う。ケースに内蔵されたマグネットの引力でイヤホンが定位置へと吸い込まれる。そうしてそれをまた投げやりにバッグの中へ放り込んだ。

「るーざー。知らん、今度聴いてみる」
「みんな、Lemonかパプリカしか言えないから大丈夫」

 言いながら、みんなって誰だろ、という気持ちになった。それこそ知らんけど。レモンとかパプリカとかいうタイトルばっかり並べると、世の中がまるで食べ物の曲にしか興味がないみたいだ。ちょっとおかしい。
 Lemonもパプリカもどちらもいい曲だけど、わたしにはうまく嵌まらなかった。斜に構えて世界を片眸で睨んでいるような、敗者の曲を歌っている米津玄師がわたしは一番いいと思っている。「本人は勝ち組なのにね」とコメント欄でよく見かけるけど。LOSERだとか馬と鹿だとかを聴いていると、この人もきっと人並みにいろんなドロドロとした感情を抱えながら音楽を生きてきたんだろうなと、そんな気がするからいいと思うのかもしれない。
 なんか意外だわ。わたしの前に立ったままの、瀬田が言った。

「眞由に米津玄師を聴くイメージがない」
「うん?」
「スキマスイッチとかGReeeeNとか聴いてたじゃん」
「ああ、うん、すごく好きだったよ」

 落とすように笑い、ベンチから立ち上がった。ほぼ無風、じんわりと首筋に汗が滲む。ベンチを翳す街路樹の合間を縫い、わずかな木漏れ日が足許で揺れている。瀬田のビジネスシューズの先がてらりと光った。きれいに磨いてあるなあと思いながら、わたしは自分の靴は見ないようにした。
 ようやく顔を上げる。視線がぶつかる。どこ行くのと訊けば、駅前のメキシコ料理店、と、それこそ南米人のような陽気な笑顔と声が返ってきた。出会い頭からずっと素っ気ないわたしにも瀬田は気にした様子がない。

「エル・ソル?」
「眞由も知ってる? 好きなんだよね、あそこ。飯もうまいし雰囲気もいい」

 わたしもたまに行く、とは言わなかった。知り合いに遭遇する可能性があるリスキーな店として脳内にリストアップする。瀬田に会うのが嫌なわけではないけど、と心の中で言い訳を呟く。元気なときならいつでもどんとこいだ。でも疲れているときは避けた方が無難な店、という意味で、わたしにはメモが必要だった。ひとりで行ってひとりでぼんやりできる店が欲しい日もあるでしょう。
 お互いに何を言ったのでもなかったが、なんとなくバスには乗らずに、瀬田とわたしは徒歩で駅前を目指し始めた。駅前までだいたい三十分くらい。わたしはスニーカーだからいいけれど、瀬田はビジネスシューズだと疲れるのではないだろうか。今はなんの仕事をしているのかまだ聞いていない。見た目営業職っぽいから革靴で歩き回るのにも慣れているのかな。まあいいか。あの瀬田克生だし。
 わたしはちらと横目で、いまさら瀬田を観察した。染めた形跡のない黒髪は短く切りそろえられている。頬や首は記憶にあるよりふっくらしているように感じるかもしれない。着ているのは職場の男性たちでもよく見慣れた、淡い水色のクールビズのシャツ。クールビズってどうしてこう、画一的に水色なのだろう。年下の男性正社員が着ていたピンク色とか案外爽やかで好きだけど。あれはセンスがよかった。

「どうかした?」

 視線に気づいた瀬田がわたしを見る。同じ仕事終わりなのに疲れたふうもなく、やっぱりきれいに磨かれたような黒い目に夕陽が灯っている。なんだかチカチカする。

「大人になった瀬田だなあと思ってた」

 口に出したら、ああそれだ、と思った。大人になった瀬田克生。今朝突然に声を掛けられたときから、わたしはたぶんそう思っていた。脈絡のないわたしの言葉に、ナニソレと、そうして明るく笑うその感じが、わたしの知っている高校生の瀬田克生と重なる。――せわしない朝、信号機が青に変わって、見えない何かに押し出されるようにまわりが横断歩道を渡り出す只中で。
 そんなことなどお構いなしに、眞由、と声を掛けてきたあの瞬間から。
 ――三十七点の紙飛行機が思い出を飛んでいく。


「眞由はもう今でも眞由、って感じ」

 流した髪を風が殴ってきた。瀬田の声がかすむ。音が立つほどのスピードで、外車が車道を駆け去って行ったせいだった。アウトバーンでもないのに速度違反もいいところだ。ああいう車を見ると、何から逃げているのだろうかという気がしてしまう。自然と眉をひそめる。

「米津を聴くイメージがないってさっき言わなかったっけ」
「そうだけど。でもなんか、自分の足許を確かめずにいられないところがさあ、俺の知ってる新井眞由って感じがする」

 足許を確かめる。
 急に言われた形容に面食らった。
 わたしは瀬田を見た。マスカラが乾いて乾いて仕方がないときのように、ぱちぱちと瞬く。瀬田の輪郭を撫ぜているオレンジ色の粒子が、波打って、砕けた。そんなわたしを見返すこともなく瀬田は歩いていく。熱が冷めないアスファルトの歩道を彼の軽やかな踵が打っている。

「子どもの頃は、星は宝石なんだと思ってたんだよ」

 え、と反射的に声を洩らしたら、いやおまえが言ったんじゃん、と瀬田が笑った。おまえが言ったんだよ、高校三年生のとき。受験のちょっと前に、放課後の教室でさ。眞由と俺と、あとは迅の、いつもの三人だけが居残った放課後で。

「あの日俺は三角関数なんか知るかっつって、返ってきたテストで紙飛行機を作ってて。迅はいつもどおり真面目に勉強してて。眞由は、そういう今が一生続けばいいのに、って言ったの。覚えてない?」

 覚えていないと答えたら嘘だ。瀬田が数学のテストで三十七点を取った日の放課後のこと。だけどわたしはうまく応えられなかった。咽喉が急に張りついたように声が出ない。
 目先のことだけを頑張って言われるまま大学に行って、その先に何もなかったらどうしようと思っていた、あの日のわたしが脳裏を掠める。傍らにいる人物があの日のわたしを知っていて、覚えている。覚えて、いる。わたしの口は、陸に打ち上げられた魚みたいになってしまった。

「虹のふもとに宝物があるとか、サンタクロースのプレゼントとか……あとなんだっけ。ごめん、ちょっと忘れたけど。眞由は悩んでた。評価や成果ばかり求められて、子どもの頃に信じていたものが見えなくなっていくのが不安だって」

 俺、横断歩道で待っているおまえを見たとき、久しぶりでもすぐに眞由だってわかったよ。そう言って瀬田は少し、小首を傾げた。

「赤信号を、すっげえ、目ぇ凝らして見てるんだもん」
「えぇ……?」
「俺にとっては信号なんてただの記号だけど、眞由にとってはそうじゃないんだなって思った。眞由はあのときも、ちゃんと自分で大学へ行く理由を考えようとしていたから。俺はあの頃も今もあんま変わらなくて、まわりが歩くから歩くけど、眞由は今日も『自分で』歩くかどうかを決めたいんだろうなあ、ってさ」

 目がそう言ってた。だから俺は、ああ眞由だなあと思った。
 瀬田の話に何て相槌を打ったらいいのか、わたしにはわからなかった。瀬田には、まだ、今のわたしのことを一言も話していない。


 行ったぞー、という声が聞こえて、それに反応して瀬田の視線が動く。わたしもそのまなざしをなぞった。幹線道路を挟んだ向こう側に高校のグラウンドがある。硬質な打音が空高く響いた。わたしたちの耳を衝いたかけ声は野球部のものだったのかもしれない。敷地を分けて、サッカー部やテニス部の姿も見える。開け放たれた校舎の窓からは金管の音や、合唱が聞こえる。じゃあね、と帰路に着く生徒たち、走り出す自転車。斜陽の中できらきらと光る。それはいつかの、わたしたちだった。
 あついな、と瀬田が言った。

「そうだね、夏だし」

 笑い含みの一言をわたしは夏のせいにした。瀬田はどう思ったのだろう。あついよなあ、と繰り返す。そしておもむろに続けた。

「さっきさ、みんなLemonかパプリカしか言えないから大丈夫って、眞由言ったじゃん」
「言ったね」
「本当は、ダイジョブじゃないんじゃない?」

 昔から、時々、瀬田はこうして見透かすようなことを言う。普段はおちゃらけているくせに。三十七点の紙飛行機が、教室の窓をすり抜けてグラウンドへ飛んで行った日――わたしが少し、おかしなことを口走ったあの日も、瀬田はそうだった。進んだ先で自由に成功や失敗を積み重ねて、そのとき本当にやりたいことを目指していくのだと、放課後の瀬田は、ぐんと背伸びをした。見えないものを掴むように。
 わたしはため息交じりに笑った。

「だからエル・ソルなの?」
「わかった?」

 悪戯っぽく瀬田の目がしなる。あの頃はなかった目尻の笑い皺に、わたしは、やっぱり大人になった瀬田克生だなあと独りごちた。河本の机に青い蛍光ペンで落書きをして、怒られると手で拭いて、かと思えば次の瞬間には汚した指先をわたしたちに見せ、ブルーマン、と言って笑ったあの男子高校生とは、似ているようで、少しだけちがう。十年以上前のことを我ながらよくもまあ、細かく覚えているものだ。
 だけど瀬田が、わたしの言葉を覚えているとは思わなかった。
 信号の前で立ち止まっているわたしのことを、誰かが、思い出すとは思わなかった。


「いまさらだけど、おうちはいいの」
「ん?」
「指輪」

 わたしは少し前のめりになり、反対側にある瀬田の左手を覗く。

「なんだ、気づいてたんだ。さすが眞由さま」
「茶化さない」

 ぴしゃりと言い切ると、瀬田は肩を竦める。大丈夫、言ってあるし。そういうことではないんだけどとわたしがわざと下唇を突き出すと、俺たちふたりじゃないよ、と瀬田はいけしゃあしゃあと宣った。迅も呼んだから安心して。

「ちょっと! なに勝手に同窓会にしてんの! 河本がいるなんて聞いてない!」
「お、懐かしいその感じ。俺ほんと眞由と迅に怒られてばっかだった!」
「喜ぶな!」

 傍目に見てもいい歳の大人ふたりが路上でぎゃあぎゃあと言い合いをしながら歩いているのを、道ゆく雑踏が見なかったことにして通り過ぎていく。きれいに磨かれたビジネスシューズと、履き潰したスニーカーが、並んで影を踏む。頭の中でLOSERの歌詞が踊っている。なんだかおかしくて、泣けた。涙をこぼしたのではなかったけど。
 ふとわたしは空を仰いだ。一日を照らした太陽が傾いて、ビルの隙間へ消えようとしている。エル・ソルで思う存分話をしたら、帰り道にはGReeeeNを聴こうか。そう思った。どんな点数でもまだ、何者にでもなれると信じていた、かつてのわたしたちに想いを凝らすのだ。

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