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【小話】ソニアの思い出

 なんでよもう、とソニアは内心で半泣きになっていた。我が家に設えられたものとは到底比較にならない高級なソファに座した目前の美青年は、入室したときからこちらを見もせずむっつりと押し黙っている。ソニアは深く腰掛けるのも恐れ多くて、針金の如く背筋を伸ばしたまま腰を下ろしているというのに。
 ──末子とはいえ王子には違いないのだから、一寸ばかり裕福な子爵家の娘が相手になるはずないではないか。
 マクレイ侯爵からお願いされては断れなくてね、と困った顔でソニアを宥めた父を思い出し、ソニアは下唇をぎゅっと窄めた。厳然とした階級差のあるクロンクビストの貴族社会で、たかが子爵家が、侯爵家からの打診について首を横に振れるわけがない。それはそうだ。

(でも! そうは言っても! 無理は無理でしょうお父様!)

 ソニアはちらっと青年──末の王子殿下を盗み見た。
 片肘をついた殿下は、子どものように不貞腐れているにも関わらず、むしろそうであるからこそ絵になるほど美しい。明るい金髪、同色の睫毛、そこからふっと覗く碧眼。顔の輪郭はスッとして、緩やかに尖った顎、やや細いが均整の取れた体躯、長い脚。──美、だ。どこからどう見ても彫刻の美である。ううっ、とソニアは胸中で唸る。眩しくてつらい!
 有名な第二王子と同腹であるがゆえこれまで余り人の口には上らなかったが、普通に、普通に! 王族! 王子! 容姿も頭脳も平々凡々な子爵家の令嬢では到底釣り合わない。ソニアの生家は、同位の家より本当に少しお金があるだけである。末王子はどんな縁談も「兄がまだ結婚していないので」と躱してきたというが、なぜこの面会の場が設けられたのか──……いや、考えないでおこう、とソニアは身を縮めた。
 先頃即位した第一王子は、優美で見目麗しいけれど、正直、いい噂を聞かない。マクレイ侯爵は第一王子──新たな国王の後ろ盾の一つとなったというが。

「イーデン」

 互いに無言のまま、気まずい時間がどれほど流れたか。そろそろ失神してしまいそうだとソニアが思ったところで、殿下は溜息の延長のように声を吐いた。

「予定の時間は過ぎたと思うんだけど」

 イーデンとは壁に控えた侍従の名前だったらしい。殿下が顔をそちらへ向けるのにつられてソニアも目を遣ると、それまでずっと気配を消していた「イーデン」は、まだ何も交流されていませんが、と素っ気なく言い返した。
 殿下は軽く肩を竦めた。立ち上がる。

「アディソン子爵家の令嬢と面会しろとは言われた。が、それ以上どうしろという話でもなかったはずだよね。共に過ごしたという事実は作った。丁重にお見送りして」

 この時間は終わりなのか、とソニアは思った。殿下が背を向けたことを理解した瞬間、安堵が襲ってきたが、慌てて立ち上がった。気に留めそうもない様子だけれど、それでも一応礼儀として、挨拶をしなければ。
 殿下、と呼び掛けかけて、ソニアはつんのめった。あ、と思ったときには遅かった。視界一杯に床が広がる。──焦りすぎた。たぶん、気が動転していた。さらに輪を掛けて、普段よりもずっと良い仕立ての重いドレスを着て、慣れない靴を履いていた。奢侈なソファとテーブルの隙間を抜けるには、些か慎重さが足りなかった。
 バン、とぶつかる音。声にならない痛み。遅れて、ガシャン、とも聞こえた。

(──こっ……)

 転んだ! 嘘でしょ⁉ いやいやいやいやいやいや! 顔を上げられない!
 ソニアは胸中で悲鳴を上げた。自分が転んだだけならまだしも、恐らく、というか十中八九、紅茶のカップを落として割った。転倒したのも恥ずかしいけれど、王宮の備品を割るなんて。とんでもなさすぎる。値段と罪状が頭の中を駆け巡った。いややっぱり恥ずかしいのもある! 震える! 涙が出る!
 いっそ殿下は振り返らず出て行ってくれていないだろうか。
 でもそれもつらい気がする。
 顔は熱いし頭は冷や水を浴びたみたいだ。感情の濁流に翻弄されながらも、このままでいるわけにはいかず、ソニアはどうにか起き上がろうとする。ふっと影が差し、手を差し伸べられたと気づいた。

「大丈夫?」

 殿下の声だった。てっきり侍従あたりの手だと思ったので、ソニアは狼狽えた。申し訳ありません、と咽喉を衝いた声は完全に上擦っている。羞恥で死ねる。
 殿下は二、三度瞬き──先程までの態度とは打って変わって、困ったように笑った。

「いや……そうか。転ぶほど緊張させたなら申し訳なかった」

 ソニアが手を掴まないので、殿下自らこちらの手を取って立ち上がらせてくれた。
 ドレスが濡れてしまったねと言われて、ソニアは我に返った。やはり紅茶を零したらしい。見遣れば、オードリー製の茶器が見事に床の上でひっくり返っている。割れてはいないと思いたいが、先程の音である、どこかしら破損しただろう。

「イーデン、ノーマを呼んできてくれるかい。彼女の替えの服を用意するように」
「かしこまりました」
「えっ、いえ、あの……! 殿下、わたくしが無作法を……!」
「いいから」

 殿下は、散乱した茶器を避けてソニアをソファへ座らせる。イーデンは、外へ声掛けに行ってしまった。ソニアはもうどうしたらいいのかわからなかった。謝罪の言葉を重ねると、殿下は苦笑をはき、着替えたらイーデンには指示通りきちんと見送ってもらうから安心してほしい、と言った。

「あなたは疲れた顔をしてここを出ること。いいね?」

 確かに、疲れてはいるけれども。
 この場へ来てからずっと合わなかった碧い眸が、ソニアを見ている。

「今日は、僕が幼稚に駄々を捏ねた、だからろくな面会にならなかった。あなたはただ振り回され、あまりの疲労感に倒れてしまった。そうだろう? ──ウィリアムは我が儘な王子だ、王城オクセンシェルナには近づきたくないと、アディソン子爵にきちんと伝えるんだよ」

 優しいが、有無を言わせない念押しだった。イェイエル河の西側一帯ではクロンクビスト王族特有のものだと聞く碧眼は、一度見たら二度とは忘れられない秘宝のようだとまことしやかに語られる。その瞳の深さに、ソニアは息を詰めた。──やはり、ソニアのようなたかだか子爵家の娘では、相手になるはずもなかった。
 彼は娘のためなら上手くマクレイと距離を取るだろうと、殿下は笑い、侍従が戻ってくるとそのまま室外へ出て行く。ソニアはただ呆然としたまま、その姿を見送った。


久しぶりなので手習いの小話。

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