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私を真夜中から連れ出すヨタカ

何もないこの手で掴めるのが残りあと一つだけなら
それが伸ばされた君の手であってほしいと思う

米津玄師/Nighthawks

BOOTLEGのカバージャケットがエドワード・ホッパーみたいだと人に言われて、見てみたら確かにホッパーのようだと思い、ちょうどそのとき書いていたこの曲に米津は「Nighthawks」と名づけたらしい。シカゴ美術館に所蔵されているNighthawks(夜更かしする人々)はホッパーの最も有名な作品である。どこに建っているかも明らかではない夜のレストランPHILLIESで、一組の男女、一人の男、一人の店員が揃っている。

私は最初、米津がホッパーの作品からインスパイアされてNighthawksを書いたと聞いたので、随分陽気にこの作品を解釈したのだなと笑ってしまったのだが。改めて調べてみると上記のような流れで、そもそも曲が先にあってその途中で米津はホッパーを知ったようなのだけど、まあどちらにしろ、米津から見たNighthawksは明るいのだと思う。アップテンポに走ってゆく、夜の街を、息を切らして、君を待って、君を追いかけてゆく。レストランのまばゆい光が廃れた街の中でも手を伸ばすだけの希望を抱かせるのかもしれない。明るい、煌々と明るい、米津玄師のNighthawks。ヨタカ。


高校までは風邪以外で学校を休んだことのない子どもだったが、大学1年の後期から徐々に講義をサボるようになり、2年生はろくに通学しなかった。母校では半期につき最低限履修しなければならない単位数が決まっていたので、履修登録期間に興味の持てそうな講義に顔を出し、そのうち、出席を取らないもの、出席を取っても最大で4回(1ヶ月)は休めるもの、レポートを提出すれば単位をもらえるもの、あるいは期末試験さえ通れば単位を得られるものをなるべく選んで、私は履修登録をしていた。ただし、初修外国語だったスペイン語だけは絶対に取らなければならず(これを落とすと進級できない)、語学の授業というのはなぜだか1限か2限にコマが割り当てられているので、そういうときは午前中で全部終わるように講義を組んでいた(もしくは間を全部すっぽ抜いて1限と5限などにしていた)。

大学は楽しいところだった。地元で、国立大学で、下に弟が二人いるからとか女の子だから外に出てまで勉強しなくていいだとか家に近いからとかいろいろな御託を親に並べ立てられ、センター試験後はほとんど勉強せずに入学したのだけど、学務に適当に割り当てられる1年前期の初修ゼミが面白かったから、楽しい、とは思っていた。それが結局、学部4年間と修士2年間ずっと師事した教授の美術史学入門だったので、これは縁だったのだろう。大学は楽しいところだった。だったのだけど、それでもまあ、気分が落ち込むと行けなくなることはままあって、それが一番ひどかったのが2年生だった。就活に嫌気が差した4年生よりよほど行かなかった。

私は、人に勉強しているところを見られるのが嫌いで(今も)、真面目にしているとその真面目ぶりを笑われたし、成績が悪いと悪いでちゃんとしなよだのなんだのと、一々、自分の挙動をとやかく言われるそういうのがずっと煩わしかったのだと思う。1年生は初対面が多いから距離のあったやりとりが2年生になると容赦なくなっていき、相手がよかれと思って言ったことが私の地雷になることが多かった気がする。私は面白いから勉強しているのであって、いい成績を取りたいから勉強しているのではなかった。だから興味のない授業の単位はどうでもよかったし、卒業できる分だけあればいいと最低限しか履修しなかった。でも多くの場合周りはそうではなく、今思えばそういうところに度々小さな軋轢があったのかもしれなかった。私はこんなクズなのに、なぜだかいつも友人になってくれるのは優しく真面目な子が多かったから余計に。


そうして、あらゆるものを疎んで大学へ行かない日は家に食べ物がなかった。何も食べない日が何日か続くと、そろそろ何か食べないと死ぬなというふうに手が震えた。動こうと思えるのが夜も更けてから、22時頃だったりして、私は真夜中にコンビニへ行くことが多かった。今よりずっと気軽であまりにもどうでもよすぎることだけが和やかに存在していたツイッターに「おなかすいた」「そろそろ死ぬ」「コンビニ行ってきます」などと呟き、誰かが「いってらっしゃい」「気をつけてね」とリプしてくれるのを待ってから外へ出たものだった。ほんの数十秒後の返事を待ってから出かけたのは、例えインターネットの中だとしても「ただいま」と言える場所があることを確認したかったからだと思う。

夏と冬の私は、いつも真夜中にいた。静まりかえった町の中を、星の瞬きをつないで歩いた。大通りへ出ると制限速度なんかさっぱり知らぬふりをした車のヘッドライトが走ってきて、強烈な光で目が眩むその瞬間に、私は死ぬことを考えがちだった。大学2年、ちょうど20歳。15歳の人生計画では死ぬ予定だった20歳。

死をやり過ごしてコンビニへ近づいた私は、入口の数メートル手前からよくコンビニの写真を撮った。特に、夜のコンビニのロードサインが無性に好きで、なんの変哲もないその看板を私はとかく頻繁にガラケーで撮っていた。空気に滲むような夏の光り方も好きだったし、冬が深まるにつれて鋭く冴えてゆく、鮮やかな光はもっと好きだった。雪が積もっているとなおよかった。エモい、というやつだ。22時を過ぎたコンビニのロードサインは、20歳の私にとって最もエモーショナルな存在だった、当時はエモいなんて言葉はなかったので「なんか好き」とだけ言っていたけど。

私は、私が孤独だからコンビニのロードサインがやたらと美しく見えるのだと思っていた。


ホッパーのNighthawksは、青い日の私が惹かれてやまなかった夜のコンビニのロードサインによく似ているのだ。米津玄師のNighthawksはその追憶に明るいレイヤーを掛ける。聴くたびに笑ってしまう。米津にはNighthawksがこんなにも明るく見えるのかと思って、少し、愉快になってしまう。夜しか息ができないような生き物を、大丈夫だって、歪なまま生きていけるんだって、この曲は20歳のどこへも行けない私と手をつないで真夜中のコンビニ前を疾走してゆく。制限速度を生き急いでゆく車のヘッドライトみたいに。

懐かしい音楽が頭のなかを駆け巡る
おまえは大丈夫だってそう聴こえたんだ
終わらないよ僕達は 歪なまま生きていける
あのカーブの向こうへ 手の鳴る方へ

不思議だ。大学2年、20歳の私は絶対にこの曲を知らなかったのに、未だ生まれる前だったNighthawksは今日の私の耳に懐かしく聴こえる。激しいエンジン音、星屑、夏はぬるく冬は凍てる闇、真夜中、光るロードサインとコンビニエンスストア。空を見上げてため息を吐くたびに死を想った、道路に寝そべる自分を夢にまで見た。明日は学校へ行くか、行けるか、家から出られるか、友だちと話すだけの気力はあるか。可能性を指折り数えながら狭い町で彷徨っていた私。どこへも行けなかった私。声高く吼えるヨタカ、君は、息を真っ白にして帰ってきた私に「おかえり」とリプライしてくれた、賑やかに夜更かしする人々に似てるよ。


私は、エドワード・ホッパーのNighthawksを明るい絵だと解釈したことがなかったので、当初、米津の解釈が面白くて笑ってしまったわけだけれど。私がNighthawksにコンビニのロードサインを思い出すように、実際のところ米津が書いていた曲もまた、ホッパーの絵と通じ合うところがあったからこのタイトルを付けられていて、つまり私たちは似たような夜を抱いて生きていたのかもしれなかった。似たような夜について異なる解釈をしている。夜は複雑で、人の内面の繊細なグラデーションを静かに浮かび上がらせる。

米津が自分の曲にNighthawksと名づけたがゆえに私はホッパーを暗い夜だと思えなくなったし、米津の歌を延々と聴いているうちにまるで私の昔日にこの曲が存在していたかのように感じられてきてまたおかしみが増している。人気のない街路、空洞に見えるビルのテナント、曲がり角で取り残されたレストランだけが暗闇を照らしている。侘しい店内、一人背中を向ける男の影だけが伸び、4人の登場人物は身を丸めている。カラカラと音がする虚無を抱えて、終わりが来るのを待っているように見える──私はそんなふうに、都会の空虚な絵だなと思っていたはずだったが、段々と、寂寥を乗り越え朝を迎えるための絵のように変化している。そしてそれは、悪くはないのだった。ホッパーの絵のなかで語らう人々は、眠れぬ夜を過ごしながら、朝を待っている。夜が明けたら彼らは、生きていけるところで生きていくのだ。私は真夜中の孤独から連れ出される。ホッパーのNighthawksを見ても、既に、寄る辺のなさは一抹ほどしか残っていない。



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