記憶とエッセイ②居場所としての、

中学生のわたしは洗脳されていた。

実際そこに思想があったかなんて、理想があったかなんてわからない。たぶんおそらく、それほどに高尚なものではなかったと思う。

中学校というのは不思議なもので、皆同じ制服を着て個性を殺されて、普通の公立中学校でさえなんとなく否応なしに所属意識というものを植え付けられるものだ。連帯責任の名の元に縛られる。

環境は外から人を変えてしまう。人は変わろうと思って変われるものじゃないなんて言うけれど、環境ほど人を変えてしまうものはない。それが良いものであっても、悪いものであっても。

置かれた場所で咲きなさい

この言葉が流行った時代が平成だ。わたしは残念ながらこの本を読んだことはないが、この言葉を聞いたとき、すごく素敵で綺麗な言葉だと思った。

しかし人は歩く。好きな場所に移動できる。

もし置かれた場所が自分にとって辛く苦しいものであるなら、元気に咲ける場所を探してみてもいいのではないだろうか。また、その場所がひとつである必要もないのだ。

人は中から腐ることもあるし、外から腐ることもある。

環境は人を変えてしまうし、意識を改革することは難しい。

抜け出したいのなら選ぶことだ。選択することは案外まだ見ぬ自分自身を見つめ直す作業になり得る。それが逃げであっても、自分で選び取ったのなら素晴らしい。

籠の中にいて外の世界を知らずに生きる。そこが日常になってしまえば、思考が死んでいくことを知っている。

今まで散々環境の重要性をつらつらと述べ、自ら選択をすべきだと促したが、実際本当に変化すべきなのは環境であると思っている。

決定権がある大人ならまだしも、子供が環境を選択するのは容易くないからだ。

昨今いじめ問題が取り沙汰されて長いが、叩けば出てくる埃のようなもので。対応がどうのではなく体制に問題があると感じる。

結局対応をどうするかは個人の問題であり団体の問題であり、根本的な問題の解決とは異なるからだ。そういったフォーマットを作ったところで形骸化するのは目に見えている。

ならば環境から変えるべきだ。体制から変わるべきだ。

表面化した問題は確かに問題であり、学校の対応も大切だ。それはアフターフォローやシステムの改善だけで十分なのか。

子供は柔軟で吸収率が高く、変化が容易い。それは確立されてないからだ。だからこそ環境に感化されやすい。影響を受けやすい。

その環境を整備するのが、大人ひいては学校のすることではないだろうか。そこに縛るのではなく、居場所を作ってあげてほしい。それが教室の中でなくとも。

学校に思想も理想もいらない。思いやりがあればいい。そんな場所になればいい。

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