私がnoteをはじめた理由
「忙しい」「しんどい」を理由に、失われたものがどれだけあるだろう。
それはいつも、なぜか他者や何かのせいで、
自分は犠牲者にでもなったかのようだ。
何かと引き換えに、時間や感受性は奪われなくてはならないのか。
私は、仕事や家庭を理由に去っていく音楽仲間を見ては、悔しくてやりきれなかった。
君には素晴らしい才能があるのに。
それは神様からの贈り物なのに。
あんなに素敵なメロディを奏でられる人が。
独特の言葉遣いで、他にはないような歌詞を書ける人が。
それを使いもせず、ただただ、仕事に追われるなんて。
そう思いながらも、私も立派に彼らの仲間入りをしている。
20代半ばの頃、私の夢は、エッセイストになることだった。毎日毎日ブログを書いてたし、もう、不思議なくらい書きたいことが溢れて止まらなかった。
どうしてそんなに時間があったんだろう?とふと思う。逆に、今の自分はどうしてこんなに時間がないんだろう?とも思う。
結婚したわけでもないし、子育てや介護をしているでもない。仕事はちょっとは大変だけれど、自由な時間も不自由な時間も、あの頃とそんなに変わってない。
それなのに、私はすっかり文章を書かなくなったし、
書かなくなったら書けなくなった。
音楽もそう。
泣きながら作ってた、溢れて止まらない心の叫びがあったのに
歌を作らなくなった。
作らなくなったら作れなくなった。
忙しくて疲れてる、頭がぼうっとするって日々感じてるのは、
きっと、いろんなことを感じないようにしてしまっている為。
だって、感受性なんて捨ててしまった方が生きやすい。鈍感な方が傷つかないし、傷つかない方が毎日フラットでいられる。傷ついたら考えてしまうし、考えると怖くなる。
誰かの何かに感情が動くのは疲れるし、本当は悲しくても平気なふりをして心配や迷惑をかけないようにするのは大人のルール。
いつの間にか、なるべく自分に影響するものを避けるようになった。
人の感情に同調しやすい私にとって、
大きく心が揺れるほどの感情は、
この社会で生きていくには余分なんだ。
わかっている。
でも、私の感受性は、捨てようとしたことはあっても、奪われてなんてない。
それを自分に証明したい。
私はこのままで生きていきたい。
それで傷つきすぎて、命を失うことがあっても
何も感じずに生きていくよりずっといい。
だから、もう一度、文章を書くことに決めた。
もしよければこんな私のちいさな冒険を、見守ってください。