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4話 越えられない壁

京都では中2までに定められた標準記録を突破すれば、選抜メンバーとして合宿に呼ばれることになっていた。
中3で活躍が期待できる選手を選ぶのだ。

男子走高跳の選考基準は1m75。
これを中2の目標に定めた。

これまで、他人の競技には興味がなかったが、勝ち負けとなるとそうはいかない。
2人、同学年で強い選手がいた。
すでに現中3に負けず劣らずの実力を備えていた。

「どうにかして彼らに追いつきたい」

顧問の先生は熱心だったが跳躍専門ではなかったので、専門誌のトレーニング講座や陸上の教本を参考に練習し、連続写真や試合の動画を見て研究を重ねた。
また、市内の中学校が集まる練習会にも連れて行ってもらい、他校の先生に教わる機会を最大限活かした。

それが実を結び、秋の競技会でなんとか1m75をクリアした。
晴れて選抜合宿に呼ばれることになったが、現実は厳しく、練習でも上位2人との差を感じずにはいられなかった。
とある先生からは「才能が無い」とも言われた。
悔しくて仕方なかった。


実力者2人のうち、1人は力が抜きん出ていた。
その影に隠れて、いつも2番手に甘んじていたのが、シンジという選手だった。

シンジは、中学生らしからぬ圧倒的なフィジカルに器用さも兼ね備えた万能型の選手だった。
当時の僕は内気だったが、彼の気さくな性格に助けられ、自然と打ち解けていった。
陸上を通じて初めてできた、他校の友人だった。
面白くて、強くて、かっこいいなと思った。


中3になったある日、シンジがこう言った。
「いつか全国でワンツーを取ろう」
京都でも勝てない少年たちにはとんでもない目標だったが、忘れられない言葉になった。


中3の全国大会は、奇しくも地元京都で行われることになっていた。
出場するには、通信大会と京都府大会のどちらかで、参加標準記録1m86をクリアする必要があった。

春の混成競技会で1m81の自己ベストをマークし、もう少しで手が届きそうなところに来ていた。

迎えた通信大会。天気は快晴。
1m70までパスをし、1m70、1m75を1回目でクリア。
当然、あの2人もクリアしていて、すでに選手は3人に絞られていた。

迎えた1m80。自己ベストに近い高さだったが、これも何とかクリア。


いよいよだ。


次の高さ1m83は3人ともパスをし、全中標準の1m86にバーは上がる。
耳に心臓がついているのかと思うほど、胸の高鳴りは大きくなっていた。

1回目の跳躍。

いつも力み過ぎて失敗してしまうことはわかっていた。
半分力を抜いたように助走に入り、内傾を意識しながら踏み切りに向かっていく。
跳躍が流れないよう、バーではなく、真上に向かって跳び上がることだけを意識した。

地面から体が離れると、さまざまな力から解放されるように、自然と回転しながらバーの上空へと向かっていく。

肩が越え、腰が越えた。


「跳べた」


と思った次の瞬間、踵がわずかにバーに触れた。

マットに体が落ちると同時に、「カランカラン」とバーが落ちる音が響いた。

続く2回目、3回目の跳躍でも、少年は一度崩れた気持ちを立て直すことができなかった。


この日、シンジたち2人は標準記録をクリアし、全中を決めた。

試合で初めて、悔しくて泣いた。



全中への夢は潰えたわけではなかった。

残る京都府大会のため、やれることは何でもやろうと、コンディショニングや栄養について調べ、母親に頼んで食事内容を変えてもらった。
毎日毎日、必死だった。

結果は、1m80すら跳べなかった。
あまりの不甲斐なさに涙も出なかった。

このとき、その後の競技人生にとって大切なことを学んだ。

試合に意識が向き過ぎると、それが気負いに繋がり、失敗するということ。
大事なときほど、適当にやるくらいが丁度いいんだと。


8月になり、全中の時期がやってきた。
シンジは地元の選手代表として大会の選手宣誓を務めた。
別世界の人のように感じた。

走高跳の日、競技場のスタンドで2人の跳躍を眺めていた。
越えられなかった壁の向こうには、もっと高い壁があった。
全国にはさらに強い選手がたくさんいたのだ。


もっともっと、強くなりたい。強くならないといけないと思った。

サポートいただけたら嬉しくて三歩跳びます。