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『不平等論』ハリー・フランクファート

要旨

「経済格差は本質的には道徳的に問題ない」ということをつらつら書いた

「十分に持っていること(充分性ドクトリン)」について

ある限界に到達したということは、その限界より先に進むのは望ましくないということだ。
一方、十分に持っているという主張は、何らかの要件や基準が満たされたということを示すだけで、それ以上得ることがよくないのだという含意は全くない

pp.50-51

お金を十分に持っているというのは、なんとかやりくりできるギリギリのお金があるとか、生活をなんとか耐えられるものにできる程度のお金があるというのとはずいぶん違う。
人びとは、かつかつの生活をするだけでは満足しないのが普通だ。…

p.52

その人が満足しているということは、その人の経済的な状況が改善される余地があり、人生がその結果として現在よりもよくなるということをその人が認識しているという状態と全く矛盾するものではない。

p.56

人びとはしばしば、状況に合わせて意図や欲望を調整する。
単に否定的なことを言われたからとか、苛立ちや紛争を避けたいというだけの理由から、人はあまりに小さなもので満足してしまうという危険もある。
ある人が文句を言おうとしなからといって、その人の人生が完全に充実しているとか、その人がそれで満足することが合理的だとか想定する訳にはいかない。

p.63

なんかセンも、困窮者の食の好みを例にとって説明してた気がするなあ〜

(幸福のために)本当に考慮しなければいけないことは何か?

本当に考慮しなければいけないことは、権利や敬意、配慮、思慮などあるだろう。
人びとに平等に必要であるから、考慮しなければならないということではない。

…それは平等性が重要だからではない。
万人がたまたま、または必然的に、今考えている得られるべきものが生じる特性の面で同じだからだ。
たとえば、同じ人間性を持つ、苦しむ能力を持つ、目的の王国における市民であるなど。
別の人が同じものを欲しがったり、自分がそれを得るべきだと思ったりする根拠には全くならない。
言い換えると、平等はそれ自体としては道徳的な重要性を全く持たない。

p.75

相対的貧困とは、当たり前に持っているとしているものが欠けている状態のことである
この文章から、相対的貧困の異なる語り方ができるか、、な?

平等性と敬意のちがい

敬意を持って扱われることと、平等に扱われることの関係性が誤解されている。

平等:単にそれぞれの人が他人と同じだけ持っていること。ある重要な点で結果が区別できなくなるようにしようと狙う。
敬意:もっと個人的なもの。その人物に対して、手持ちの問題に実際に関係ある個別の性質や状況の側面に基づき、その人物に個別に向き合うこと。その個人の特異性に個別にマッチした結果を狙う。

人びとを敬意をもって扱うというのは、特別な優位・劣位を割り当てるに際し、割り当てられた人びとと、割り当てられなかった人とを区別するような考慮以外のどんな優劣もつけないということ。

pp.76-77

なぜ、経緯が道徳的に重要なのか?

適切な敬意を拒絶されるというのは、まるでその人の存在自体が矮小化されたかのようになる。(から)

p.84

フランクファートの主張(解説から)

収入や資産に差があるからといって、それが社会的な地位や待遇や機会の差につながる必要はない!

p.111

「人はいかに生きるべきか?」についてのフランクファートの答え

人生の正しさとは何か?と言い換えてもいいかも

道徳は答え(規範)を与えてくれない。
意志(欲望や願望)こそが規範を与えてくれる!

pp.125-126

これを先生に話したら、
「経済格差は本質的には道徳的に問題ない」は当たり前でしょ。
と言われてしまったHAHA


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