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ペラッペラ人生①老人ホームでの職業体験

今日から自分の半生的なものを書いていこうと思う。

花岡です。

思いついてからボコボコ書いていくシステムなので、時系列ごっちゃになるかもしれないけど許してちょうだい。専門学校での事、お笑い芸人だった時の事、劇団の事、さかなDVDの事、たくさん書いていきます。

僕は高校を卒業してからお笑い芸人を目指すようになるわけですが、その前はどうだったか、ていうかお笑いを目指すきっかけ的なことになってくるんですが

僕は高校3年生からお笑いを目指すようになるのですが、それまでは全然違う事考えておりました。

高校2年生の頃は進路など考えずにモテることばかり考えておりましたし、高校1年生の頃はこんな私でも『福祉関係』のお仕事に就こうと思っておりました。

福祉関係の仕事に就こうと思ったきっかけがございまして。

中学校の頃に『職業体験』ってなかったですか?あの色々興味ある仕事の現場に行って体験させてもらうやつです。スーパーのレジ打ちだったり、徳島は田舎なので木に穴開けてシイタケの菌を入れる仕事もあったり、そんな中僕が選んだのは家から近い老人ホームでして。

僕を含め卓球部で一緒だったH田くんとか、ほかにも何人かいまして。6人くらいかな。その6人で老人ホームに行き、ここから職業体験が始まりました。なんと1週間も職業体験です。長ない?だいたい1日で終わりやんな?僕らのところは1週間。長ないか?

そんな長期戦で始まった、家が近いからという理由で選んだ老人ホームでの職業体験。

7階建ての大きめの建物そのものが老人ホームで、病室みたいなんもあったんかなぁ、どやったんやろ、なんかとにかくちょっと大きめでした。さすが田舎、土地有り余る。

まず婦長さん的な人が僕らを案内してくれる。ロビー的なところに歩いてだったり車椅子だったり、自分で動けるおじいちゃんおばあちゃんが集まっていた。みんなの前で婦長さんが僕らの事を紹介してくれる。ウケることも滑る事もなくただ全員がじーっとこっちを見ている。ずっと喋ってるおじいちゃんもいたが、内容は覚えてない。うるさいし怖いって感じたのだけ覚えている、

全員一通り自己紹介もし、自分の名前を言い、ウケもせず滑りもせず反応はないまま、婦長さんが『じゃあ一人ひとり担当する方を紹介するわね~』と。なんと僕ら中学生一人につき一人担当するおじいちゃんおばあちゃんがいるとの事。

僕が担当することになった方は今でも覚えています、荒○ふじえさん84歳。

スタッフのおばちゃんから『ふじえちゃんって呼んであげたら喜んでくれるよ』と助言を頂き、おばあちゃんに自己紹介する。『花岡翔です、中学三年生です。ふじえちゃんよろしくね。』ふじえちゃんは『あなおかくんきてくれてありがとぉ』とニッコリ笑ってくれた。歯が4本くらいしかなかった。滑舌が悪いのか、逆に僕の滑舌が悪かったのかずっと「あなおかくん」と呼ばれていた。

2日目も3日目もずっと「あなおかくん」だった。2日目までは訂正して、「ふじえちゃん、僕の名前はなおかよ!」と言っていたのですが「あなおかくんやろ?」ってすべて聞き返されるのできっとハ行が弱いんだろうなと落ち着いた。4日目くらいではっきりと「あなおかくんハンバーグ好きか?」とはっきりハ行言っていたときは分からなくなった。


職業体験の内容は簡単な事だった。きっと良いところばっかり見せてくれていたのだろう。朝に老人ホームに行き、みんなでラジオ体操して、一緒にテレビ観て、昼ご飯前に生徒皆でご飯の用意をして、担当のおばあちゃんと一緒にご飯を食べる。その後、お遊戯会みたいな感じで歌って踊ったりする。踊る言うても体揺らす程度のやつね。

ご飯も普通には食べられないので、色々混ぜたり、ぐちゃぐちゃにして喉を通りやすくしてあるメニュー。デザートのプリンも喉に詰まらないように僕がスプーンで書きまわしてほぼ飲み物みたいな状態にして「あーん」と食べさせてあげる。歯が4本くらいしかないし、ふじえさんは右手がずっと震えているので左手で食べるとすごくゆっくりになるから食べさせてあげてくださいって言われていたからそうしてあげないといけないのだ。

今考えたらすごいよね、僕が悪い中学生で、「あーん」ってしながらこのスプーン喉奥までツッコんだらどうなるんだろうとか思うタイプだったら大変だったろうに。そんなとこまでやらせてくれるなんて。

時代なのかなぁ。

ご飯を食べた後に軽く運動として歌をうたって、お遊戯をする時間がある。

大きなのっぽの古時計をスタッフさんと体験生で歌った。最後におじいちゃん死ぬけどええんかな?と疑問に思いながら一生懸命歌った。おじいちゃんおばあちゃんは喜んでくれていた。

他には濡れたタオルで簡単に体を拭いてあげたり、立つために肩を貸してあげたり、まぁまぁ入り込んだことまでやらせてくれた職業体験でした。

ふじえちゃんは7階にあるみんなの休憩場の自動販売機の横に置いてあるゆりかごのような椅子が好きでよくそこに座っていた。僕はその横で膝をつきふじえちゃんとお喋りするのも職業体験のひとつだった。

で、1週間の体験が終わり最終日に「ほなふじえちゃん僕今日までやからありがとうね」と言ったらふじえちゃんは驚いた顔をしてそのあと「どうもありがとうございました」と言い涙を流してくれた。

なんでしょう、この時の気持ちが僕は忘れられなくて、大変だったけどすごく刺激的で、こんなにも喜んでくれるなんて素敵やなと思い、嫌な部分見てないから簡単に福祉でお仕事したい!と思うようになった。



職業体験が終わってからも何回かその老人ホームに行きふじえちゃんに会いに行ったりもした。久しぶりに行っても「あなおかくん来たんけぇ~」と喜んでくれた。いい仕事だなぁと何回も思った。

で、高校生になり、新しい友達も出来て、バスケ部に入ったり、ポケモンのレベル上げが忙しくて、老人ホームにはあんまり行かなくなった。土曜日部活が昼までで久しぶりにその老人ホームの前を通ったので挨拶しておこうと7階のゆりかごを目指したがそこにふじえちゃんはいなかった。

あれ?と思い、ふじえちゃんの部屋に行ったが別の人が入っていた。

やばいやばい、84歳で歯が4本、身体はわりとずっと震えてるし、めっちゃ元気ってわけでもなかったから、もしかしたらと背中に変な汗をかいた。

7階から1フロア1フロア探したがいなかった。窓から外をよく見ていたので、底も探したがいなかった。で、スタッフさんに尋ねると体調を崩し大きな病院に移動した。との事だった。幸い亡くなったり最悪の事はなかったが、命にかかわる仕事なんだなとここで初めて思った。遅すぎるけどずっと楽しいだけの仕事と思っていた。

福祉関係の仕事は担当する人がどんどん変わる仕事で、死と隣り合わせの仕事だと理解して高校生の僕は、キツすぎると素直に思った。

担当して仲良くなった人が死ぬ。

長く続ければ続けるほどその回数も増えていくんだと。

僕は福祉関係の仕事をする事を辞めました。


そこからは進路の事など考えずにどうやってモテるかばかり考えました。同級生には全くモテませんでしたが後輩からは少しだけモテることが出来ました。


そんな僕を高校3年生の頃の担任の先生に怒られ「ちゃんと進路の事考えてみぃ、なんか楽しかったことないんか?」と聞かれ、さすがに夏休み前だったのでどうしようかなーと、何が楽しかったかなーと考えた時におじいちゃんおばあちゃんの前でお遊戯したことが楽しかったなと。

中学生の頃生徒会に入っていて、生徒会のメンバーで劇をやられることがあり、その時みんなに笑ってもらったのもすごい楽しかったなと。

で、その時の経験から人前で何かパフォーマンスする人になりたいなと思うようになり、高校3年生の僕は俳優はイケメンしかなれないと思っていたので却下。こんな顔四角くてナタデココみたいな人には無理やと。音楽も好きだったんでそっちも考えましたが、歌とびきり上手いわけじゃないし、楽器もFコードの壁に躓いたので却下。で、当時オンエアバトルが好きでネタ番組ばっかり見ていて、お笑い芸人って素敵やんって思い、放送芸術学院のオープンキャンパスにいき、フロートークの体験授業でウケて楽しかったのでそこに入学することに。

NSCに行かなかったのはそんな消去法で選んだ人間行ってええんかなって変に遠慮した部分と、どこかビビってた部分はあると思います。放送芸術学院ならお笑い以外の歌やお芝居の授業も取れるって教えてもらったのでそっちを選んだって理由も大きいです。のちに中途半端に授業とってもなーんも意味ないし、時間の無駄だと分かったので2年生からはお笑いの授業しかとらず、週4コマしか行かんかったけど。



これが僕がお笑い芸人になった理由です。

これからもこんな感じで過去の事、専門学校での事、劇団の事、さかなDVDの事たくさん書いていきます、よろしくお願い致しますね。


花岡ショー

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