私は幼児期から長期的な我慢をしてきました。それは、衣食住の内の衣と住を我慢すると、
服装がお下がりばかり着ることを強要されることで、毛羽立ちのあるボロい衣類を着ることを着ていると『自分は価値がない人間だ』とか思ってしまうわけで。
そうすると、前向きになりようがなく、自分の存在は人からばかにされるような存在なんだと思ってしまうわけで、自分を小さくしようと
背中が丸まっていくわけで。
そうすると、同級生の意地悪がはじまります。ボロい服を着ていることで自信がなく、猫背なので、異常視され、いじめられるわけです。教室に入るだけで緊張状態に陥り、勉強どころか、教室にいるだけで
ものすごいストレスでした。
給食の時間は地獄でした。ナフキンボロボロとか箸入れ剥げてるとかの他に、
少食でしたので、量が多すぎて完食できないのです。私の通って小学生では恐ろしい裁きがありました。完食しないことは許さない。というもので、『世界には食べられない人がいるのに、おまえは贅沢だ』という理屈から
机の上に食べられない量を残した状態で、机と椅子を晒し者とか見世物にするために、
廊下に机と椅子を出されて、給食を完食することを強要されたり、ベランダでも同じことを強要されました。
我慢とは、反撃をするために星の数ほどの我慢が今までどれだけできるか?と言えるのではないかと思います。
今、この我慢は意外にも役立っています。
私はここ12年ほどあってはいけない我慢が発生して、堪忍袋の緒が切れました。2度目のストレスの限界だと限界だと思いました。
だから、今回は怒りを露わにしました。
それは、今までの私を知っている人からすると、信じられないことだったように思います。
性格が変わったというよりも、人間にはストレスに対する容量が決まっています。そのストレスの容量を超えてはならないのです。私は前回、我慢のしすぎで、ストレスの容量を超えてしまったので、ここに書くことはしません。ただ、我慢には限界があって、長期的な我慢というのは
戦地にいるようなもので、緊張状態から解放されることはないのです。
ただ、今回は長期的な我慢をするのは2度目で、なにか学習はしていて、もう潰されるわけにはいかないので
家族に対しての我慢はやめました。。。
家族が私の悪口を言うと『超気持ちいい!』のか、いちばん目下の私に対して言葉というソードでぶっ殺しに来るわけです。
だから、一度言葉で殺しに来たら、私は
5から10の言葉で仕返しとして、言葉で殺しに行きます。私は好戦的な人間ではありません。やり返しをしないと、家族ではなくても
同じ場面を見ることになり、限界を超えるほどの我慢をやめないと
これは繰り返すのです。だから、どこかで過剰な我慢はやめないといけないのです。
結局、生活する上で多少の我慢と、その我慢に対するストレス発散は必要ですが、
人の容量を超えるほどの我慢をする必要はない。ということです。なめてるだけなんです。
『この人は優しいから、自分はどんなことを要求しても許される』というポンコツな考えのやつっているんです。ばーか!うんこ!という感じなんです。
でも以前の私は幼児期からこんな呪いをかけられていました。
『みんななかよくしなくてはいけない』
ばかでした。いろいろな人間につけ込まれました。うんこどもにつけ込まれました。ある意味、人生はうんこドリルな部分はあるんです。優しいだけだと、次々とうんこレベルの人間が現れるわけです。うんこの言うことを聞き続ける必要は
ない!
うんこまみれにされる必要はないんです。さてはおまえ、人間ではなくうんこのようだな。洗い流してやる。私までうんこにされてたまるか!!!という感じのうんこドリルですね。
うんこを洗い流す言葉で有効なのが
「おはよう」とか
「どうもありがとう」とか
「よかったね」とか
「それが?」とかが、有効です。
意外と普通の言葉なんですが、うんこは絶対言えない言葉なんです。「ありがとう」とか「よかったね」とか言えないんです。うんこだから汚れていて、人を落とすことしか考えていないんです。でも不思議なことに、これらの言葉を言い続けると
うんこも「ありがとう」とか「よかったね」とか言えるようになるんですよ。感染するみたいなんです。
ただ、うんこを変えようとは思わない方がいいです。無理なんです。できないんです。
うんこを洗い流すことはできない。
よく『悔い改める』とか言うじゃないですか。嘘だと思っていた方がいいです。
変われる人間はほとんどいない。と思っていた方が賢明な判断です。もしも変われる人間がいたら
それは人間の領域を超えた神レベルだと思ってください。ただ『自分は神だ』とか言っていたら、やっぱりうんこだな!くらいの話です。
その判断をするのは自分ではなく、第三者の評価としてだけだと思われます。
そんなものだと思っています。
thank you!