半透明の浴室
人への期待を欠片ほどももてなくなったとき、おまえは最後に半透明の浴室をおとずれるだろう。
浴室というには広すぎるし、湯の出る設備さえないその立方体の白い部屋は、じっさいには浴室ではないのかもしれない。しかしこのさい名前はどうでもいい、なかに浴槽がひとつ静かに浮かんでいるのでそう呼んでいるだけだ。まるみを帯びた陶器の浴槽はちょうど人ひとりが膝をかかえてうずくまるのに適した大きさで、誘惑に屈してその内に身を入れたものは、そここそが自分の生涯必要としていた場所だったと知るだろう。いままで為してきたとりかえしのつかない選択や、まとわりついて離れない不安や、そうした厄介なすべてが緩い曲線を描く器の内にきれいに収まる。そうして長い時間を陶然と送るうち、おまえはどのようにしてそこへ来たのかわからなくなる。あたりを見回しても入口はおろか周りを囲んでいた壁もなく、刻々と果てしなく膨張するらしい空間の中心にいる自分のからだだけがひたすらによそよそしく、肌に開いた毛穴ひとつひとつの緻密な不気味さと、その奥で粘液につつまれながらぶよぶよと蠢く内臓の無音の叫びに気がついて、自分こそがその空間にあってゆいいつ、半透明の浴室を求めれば求めるほどに疎外されていく不調和な存在だと知るだろう。いまでは背中から太腿にかけての皮膚が艶やかな陶器の表面と融けかかっており、仮にそうでなくとも身を起こす気はすでにない。おまえはそこですっかり浴槽になって、天井の蛍光灯に照らされて、つぎにおとずれるものに白い光を投げかけるだけの美しい曲線になるだろう。そのときおまえが心の底から安堵するかどうかは問題ではない。この半透明の浴室に必要なのは、立方体の白い部屋と、そのなかに浮かぶひとつの静かな浴槽だけなのだ
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