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どこまで子どもを親に付き合わせる?

 “宗教2世“
 旧統一教会モンダイで浮き彫りなってきた、宗教の問題。

 というわが家もクリスチャンホームなので、私も宗教2世だし、私の子どもたちは宗教3世ってことになる。

 でも、「宗教2世」ということばが持っているイメージは、あんまり良くない
 私自身はクリスチャン2世だけど、”宗教2世” だとは思っていない。

 無論、自分の子ども自身が、自分を ”宗教2世” だと思ってもほしくないし、
 まわりにうちの子が “宗教2世” と思われることも嫌だ。


  〜これはわが家の子育てのお話です。〜

クリスチャン2世の犠牲

 クリスチャンの親なら、まぁ多くの人が、自分の子どもにもキリスト教信仰をもってほしいと願うでしょう。

 特に(ウチもそうだけど)親が献身者の場合、より子どもを「クリスチャンになってほしい」という気持ちで育てるでしょう。

 子どもに信仰を継承することは、クリスチャンペアレントの責任だというのも聖書の示すところだし。

 私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとめなさい。
 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。
 あなたが家で座っているときも、これを彼らに語りなさい。
   申命記6:6-7

 でも、「聖書が言っているから」で、子どもに信仰を押し付けていいのか?…と思うことも多々ある。

 子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。
 これは正しいことなのです。
「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。
 「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。
  エペソ人への手紙5:1-4

 このみことばも、「子どもを従わせる」派はよく引用するところ。

 でも私が思うに、「クリスチャンになってほしい」という気持ちは、
 →「クリスチャンにしたい」という気持ちに変わり、
 →「立派なクリスチャンにするんだ」というエゴに変わる。

 特に献身者家族に多いのが、

 日曜日は何が何でも礼拝。
 クリスチャンなんだからと、他宗教・徹底排除人生。
 教会学校の後は、礼拝に出て静かにお座り。

 それらを押し付けられて、いろんなものを犠牲にしてきた2世たちも見てきた。

 日曜に部活の大会があれば欠席。運動会も欠席。
 修学旅行が京都・奈良(神社仏閣巡り)なら行かせない。

 
 そんな2世は、大きくなると、

 日曜出勤の仕事には就いてはいけない(日曜出勤は断らなければいけない)と、職の幅を狭めたり、
 初詣に行く友人や国旗掲揚する人たちを見て、「彼らは神を知らない」と無意識のうちに見下していたり
 …まぁ、そんなクリスチャンになってしまう2世もチラホラいる。

「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。
 「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

 「子どもが幸せになるために、子どもを親の信仰に従わせる」…という親の言い分もわかるけど、
 果たして子どもは、自分の払った犠牲より大きな祝福を、感じているのだろうか。
 (や、感じている、受け取っているというなら、それでいいんですよ。)


犠牲を強いられないクリスチャン2世

 そんな、犠牲を強いられるクリスチャン2世がいる一方で、自由な選択肢を与えられて育つ2世もいる。

 ある程度の年齢に達したら、教会に行く・行かないは子どもに決めさせる。
 日曜日に部活や仕事があった場合の判断も子どもに任せる。
 そんなご家庭もある。

 子どもに「キリスト教嫌い」になってほしくない家庭は、割と子どもの意思を優先させる傾向にある。

 私もどちらか言えば、こっちタイプの家庭で育っています。

 だから日曜日に部活の大会があれば、参加しないなんて選択肢は私にはなかった。
 むしろ両親も、絶対大会を見にきてくれていたし、思春期とは言え、それはやっぱり嬉しかった。


 ただ、日曜日に部活がある時は、教会学校の時間を早めてもらうとか、「教会に行かない」のではなく、「行けるための努力」親の側でしてくれてはいました。

 だから大人になって仕事を選ぶにも、日曜日出勤の仕事は避けることはなかった。でも、なるべく調整してもらうという程で、やりたい仕事をやることができた。

 …ま、でも礼拝の後、「仕事なので帰ります」と言うと、”犠牲=信仰” の感覚の持ち主からは、「え?日曜休みの仕事してないの?」みたいな目で見られたりもしたけどね。
 (この圧に耐えられなくて、日曜出勤を拒否することもあったし)



 ただ、自由を与えられることのデメリットも、もちろんあった。

 「神様を一番にする」とか「聖書のみことばに従う」という感覚・信仰が、いまいち養われにくいということ。(あ、私の場合はそうだったっていう話です。)


 で、この育ち方をすると、なぜか「放蕩息子」のように扱われる
(別に、神様から離れてるなんて自分では思ってないんだけど、お兄さんタイプの人からは「信仰的遊び人」として見られがち)


 でもそう思われても仕方ない。だって、私も聖書のおもしろさに気づいたのは、、やっとこ礼拝に赴く意味がわかったのは、教会生活20年ぐらい経ってからだったから。

 大人になった今、私はもう少し、「みことばに従うこと」を教えて欲しかったなぁと思ったりもする。


子どもに信仰を強制するのではなく、信仰を見せる

 じゃぁ親となった私は、どう子育てをしていけばいいのかを考えてみる。
 子育ての答えは家庭それぞれだと思ってはいるけど、私たちの場合は…

   子どもたちには、私たちの信仰の結末を見せる。

 これが私たち夫婦の子育てです。

 神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。
 彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。
   ヘブル人への手紙13:7

 というのも、私も親から何を教わったかというと、具体的に聖書の話を教わったりだとかはなかった。
 (一応母は、教会学校の教師ではあったが、私はほぼ上の空で聞いていたので笑)

 でも、私は親の「信仰の結末」を知っている。

 都度都度辛いことはありましたよ。親の会社が経営不振で、お金がないから友達と遊びに行くこともできず、
 結局会社をたたむことになって、ど田舎の祖父母の家に引っ越すことになって。

 私にとっては思い出したくない過去なんですけどね。
 けど、私は両親がいつも聖書を開いて祈っていた姿を、実はこっそり見ていた。

 アクラとプリスキラを目指していた両親は、誰よりも教会に仕え、牧師夫婦が唯一悩みを吐き出せる信徒であったことも知っている。

 基本的に子どもの行事以外で礼拝を休むことはなかったことを知っている。


 両親からは、何も教わっていない。
 しかし、両親の信仰の姿はずっと見てきた。

 そしてその信仰の結果である、両親の「今」を、私は見ている。
 聖書を読めとか、祈れとか、礼拝を休むなとか、教会の手伝いをしろとか言われたことは、一切ないけど、
 私はその信仰の結末を見て、同じ信仰で生きていくことを自分で選んだ。


 私もまた信仰によって生き、その結果から、子どもには学んでほしいと思っている。
 時には一緒に、私たちの信仰に付き合わせてしまうこともあるけど。
 (転校、引越しなんかは特に申し訳ないと思う)


 でも、私たちの信仰の結果、何を得、何を失ったかを子どもたちには見せたいし、見てもらいたい。
 そして、キリスト教信仰を持つのか否か、信仰によって生きるのか否か、子どもたち自身の意思で決めてほしい。

 みことばを愛する人間になってほしいとは願ってるよ、そりゃもちろん、切にね。

 でも、親に押し付けられた “宗教2世” になってほしくない。
 あなたなら、自分の子をどう育てますか?

 自分の意思で、子どもたちが信仰を選び取れますように。


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