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あなたの必要を、満たせ。
「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい」
ヘブル人への手紙13:5
「衣食があればそれで満足すべきです」
1テモテへの手紙6:8
“だから金銭を追い求めず、欲にまみれぬよう、天に目を向けなさい”
と、どれほど言われて育ってきただろう。
そう言われ続けて育ったクリスチャンって、どうなると思う?
“欲しい服も我慢して、食べるものがあるだけ感謝。
そんな暮らしをしなきゃ。だって、それがクリスチャンでしょ、献身者でしょ?”
“高い服、高いごはん。求めてしまう私は罪人なの?”
そして、自分よりもいい暮らしをしているクリスチャンを見て、さばいたり、妬んだりしてしまう。
__でも、聖書が言いたいのはそういうことじゃないと思う。
心と体が健やかでいられる「必要量」って、実は意外と多くて、
必要を満たされない生活を続けると、心も体も健やかではいられなくなる。
人間の必要って、意外と多いんだよ。
「衣食があればそれで満足すべきです」
これって本来、
「人は、衣食があれば満足できる」
というニュアンスだ。
マズローの5段階欲求はあながち間違いじゃない。
衣食が「整っていること」は、人間が人間でいるために、必要最低限のラインなのだ。
でも、ただ「あれば」いいってわけでもない。
“あなたにとって”の“良いもの”で、あなたを”満たす”こと、それが神が私たちに与えようとしている「必要」だ。
それなのに「欲するな」と説かれてごらんよ。
ピュアなクリスチャンこそ、過度な節制をし、「節制 is 美徳」と、神様が与えようとする「必要」を、「求めてはいけないもの」と思い込んでしまう。
やがて説教者よりも貧しくなり、それでもなお、求めること(欲すること)を罪だと思い込む。
だって、そう言われて育ってきたんだから。
はじめに挙げたヘブルのみことばも、テモテのみことばも、本来はそんな意図で言っていない。
それらが「誰に、どんな人に」宛てて語られているのか、あなたはその文字通りに適応していいかどうか、
御霊に導かれてもう一度聖書を読んでごらん?
「我慢しなきゃ」と自分を窮地へ追い込んでいる人へ。
「おいしい」と思えるものを食べて癒されなさい。
「カワイイ」と思えるものを着て可愛くなりなさい。
「楽しい」と思えるところに行って、心を喜ばせなさい。
それゆえ主はあなたがたに、恵みを与えようとして待ち、
それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。
ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。
もうあなたは泣くことはない。
あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、
それを聞くとき、あなたに答えてくださる。
イザヤ書30:18-19