収穫の働き手とは、守り手。
私の住む畑野町から山一つ下った麓にある、本梅の田んぼ。
おばあちゃんが一人で管理をしている姿をよく見かけました。
9月も終わりに近づいているけど、まだ収穫されずに、日に日に稲が倒れていく。
稲はこんなにも色づいているのに、もしこのまま収穫されずにいたら…。
鹿や猪、鳥たちに食べられて終わってしまう。土の中に残されたガスが影響して、翌年の生育不良を招くことも、なくもない。
なぜ収穫せずにいるのか。
もしも、働き手がいなくて収穫できずにいるとしたなら…。
6ヶ月、ほぼ毎日この稲を見てきた。そして収穫時期を迎え、やっぱり浮かぶのは、ベタだけど、このみことばに尽きる。
このみことばで、献身した人も少なくないはず。
「宣教師が起こされますように」とか
「働き手が遣わされますように」とか
このみことばを基に祈った人も多いのでは?
しかし、ちょっと待って。
“そこで” という記されているのだから、その前文もちゃんと読まなきゃね。
イエスは、ご自分のもとに押し寄せる群衆を見て、「羊飼いのいない羊の群れ」のように思われた。
その姿は、「弱り果てて、苦しめられて、倒れていた」と描写されている。
その姿を見て、「収穫は多いが働き手が少ない」と言われたのだ。
稲の苗が植えられてから収穫まで、土づくりや管理はあれど、その生育はまさに天任せ。
今年は台風の影響もあってか、「倒伏」が目立っていた。(台風前から倒れていたけど)
そう、稲は天候だったり、土の状態だったり、動物だったりからの、外部刺激を受けやすい。守ってくれる人がいなければ、「弱り果てて、苦しんで、倒れてしまう。」
イエスのもとにきた群衆には、「守ってくれる人」がいなかった。
パリサイ人の教えに苦しめられ、弱り果てていた。
そんな人たちが溢れているというのに、彼らを守る「働き手」が少ないと、イエスは言ったのだ。
収穫の働き手とは、宣教する人を指すのかもしれない。
でも、もっと根本的には、「守る人」「助ける人」「慰める人」を指すんじゃないかな、と思う。
実際、私たちを含め、羊飼いのいない羊は想像以上にいる。
羊飼いがいなくなって初めて、その多さに気づいたのだが。
今は収穫の時。収穫の働き手がいなければ、目の前の穂は、弱り果て、倒れたまま、やがて死んでしまう。
羊飼いがいなければ、(いたとしたって、)養われなければ、羊は弱り果て、倒れ、やがて死んでしまう。
私たちの立つフィールドは、主の畑。持ち主は主である。
「守れる人」が少ない今、目の前に、弱っている羊がいるなら、倒れている穂があるなら、まずは主に知らせよう。まことの農夫、まことの牧者は主なのだから。
それから主に、「守り人」を送ってもらおう。
それは「私」かもしれないし、「誰か」かもしれない。誰であっても、穂が、羊が、癒されることを、収穫されることを、私たちはひたすら願うだけだ。
(ちなみにこの田んぼは翌日、おばあちゃんとおじいちゃんが二人で収穫をはじめました。)