母であり妻であり、社会人であるけれど、その全てが私であるということ
発達しょうがい育児の思い出を書き始めました
母であり、妻であり、社会人であるけれど、そのどれをも含めて私で在ることって
発達に凸凹があろうとなかろうと
子どもたちはその子で在ることに変わらないのと似ているのかな? とふと思いました
私について
私の仕事は幼児教育分野です
毎日200名近い赤ちゃんから就学前の子どもたちと
接しています
みーーーんな、たまらなく可愛いですよー😍
泣いても笑っても、イヤイヤ😡💢になっていても
どんな感じでも丸ごと可愛い
そうかそうかイヤイヤなんだね、うんうんってしています
担任の先生たちはちゃんとやるように言ってください!って言うけれど
ごめんね、私はこの子がこうして在るだけでいいと思ってしまう
ひらがなが書けなくても、鉄棒が出来なくても
野菜が食べられなくても
生きていてくれることこそが、ありがとうだから
長が付く立場だけど、ちゃんとしなさいって
思わないの
とてもそんなことは現場の先生たちには言えませんが
心の中ではいつも子どもたちに
産まれて来てくれたね、こうして出会えたね
今日も通って来てくれているね
ありがとうね
ありがとうね
今日も仲良く過ごそうね
帰りには、また明日会おうね、あなたを待っているよ
そんな毎日が続いている
私は長として出来も良くないし頭も悪いから
現場の先生たちの方が
教育的、保育的にも素晴らしいスタッフです
仕事現場ではひとりの社会人
家庭ではママ、妻
そしてスタバでお茶しているときは女性
そのどれも私であって
役割という覆いのようなものを着ているのかもしれないけれど
そのどれもが紛れもなく私であって
私の中にそれらが在る、みたいな感じだなと思った
そしてそれは
発達しょうがいである子どもたちもそんな感じなのかなと思ったら
やっぱり発達凸凹であろうとなかろうと
丸ごとその子であって
無ければ良かったとか
通常、定型発達と比べるとか
そんな単純なことでもない気がしてきました
発達しょうがいの我が子たち
基本的にはとってもとっても優しいのです
道でお年寄りが荷物が重くて持てなかったら
家まで持って行ってあげたり
クラスのお友だちが図工の材料をいつも持って来られないからと言って、その子の分までアレコレと用意して持って行ってあげたり
発達しょうがいのお子さんでこんな風に優しくて、とっても親切な人は多いように思います
子どもの姿をしていても
人ととして素晴らしいなと私は自分を省みる思いです
仕事現場でも
発達しょうがいのお子さん、またもしかしたらそうかな? のお子さんがいます
必要なシーンではもちろん関わっていますが
必要以上に先回りして心配したり
保護者へ過度なアドバイスをしたりはしていません
もちろん相談があれば
その思いに寄り添い、一緒に子育てに関わらせていただきます
私は発達しょうがいであろうとなかろうと
育児をベースとして子どもの発達に寄り添っているんだと思います
基本的には
生活リズムであるとか
健康であるとか
身体の発達のための運動、遊びとか
特に遊びでは
その子が何が好きで、どんなことに興味を持っているかとかをすごく見つめます
苦手なことはあんまり注力していないかもしれません
それよりもどんな時にその子が夢中かな、の方を見ているかもしれません
発達しょうがいの知識は
深めても深めても正解が見つけられず
試してみてもその子に合うかどうかは結局
未来にならないと分からないってこともあります
私は目の前の一人ひとりの子に集中します
一括りには出来ないのが発達しょうがいだと思うのです
本当に個性豊かだと思います
私はバカで頭も悪くて良かったのかなと思います
下手に頭が良くて知識ばかりを詰め込んでいたら
大切な目の前の一人ひとりの子たちの
一瞬の成長の輝きを
見ることが出来なかったと思うのです
豊富な知識や学びは確かにあって悪くはないと思います
無いよりはあった方が良いのかもしれません
けれど私みたいなタイプは
自分の目で見て、自分で経験してみないと
自分のモノには出来ないのだと思います
もしもご自分のことを
頭悪いから、、と思っていらっしゃる方がいたら
きっと大丈夫かもしれません
あなたも頭よりも身体で獲得するタイプかもしれないから
ママの私も
妻の私も
職場での役割の私も
街中をボケっと歩いている私も
全てが私で
どれも全部、好きだなって思います
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