ヴィパッサナ
森の瞑想家まっすーさんの「瞑想マスター講座」を受けている。
今までイメージ誘導による瞑想や、我流の瞑想しかやったことがないので、きちんと瞑想を学ぶのは初めて。
瞑想のイメージが良い意味で覆された。
今までの私の瞑想のイメージは、どこかスピリチュアルなもの、神秘的なもの、恍惚としたもの、といったところ。しかしそういう瞑想は、している最中は気分が良くても、「そこまで」。特に誘導者によるイメージ誘導で入っていくタイプの瞑想は、ガイドに手を引かれればその地にたどり着けるけれど、いざ一人で行こうとすると同じ場所にはうまく辿り着けない、そんなケースが多かった。そしてやはり、どこか強制的にイメージを固定されているような不自由さも感じた。イメージって思考の延長な気もするし。
しかしまっすーさんの誘導は、良い意味でどこまでもシンプル。イメージへの誘導は一切なし。単純に、瞑想の手順のみガイドしてもらったら、あとはひたすら身体を感じ、呼吸を感じ、意識を広げていく、というもの。思考が湧いたらそれも感じる。ただ在るものを認め、眺める。でも解釈したり、後追いはしない。それだけ。
宇宙も光も龍も何も出てこない、当たり前だけど。
それだけなんだけど、すごく大切な感覚だと感じる。
喩えていうなら、まっさらなキャンバスになっていくイメージ。いや、キャンバスだったことを思い出す、のほうが的確かな。
一枚のキャンバスに一羽の鳥が描かれていたとしよう。この鳥は、私の思考であり、目の前の出来事であり、感情だ。つまり、今、自分の意識の大半を占めているコンテンツのこと。
「あー、今日は雨か。サイアク」とか「この後の予定は○○だから急いでご飯食べな」とか「昨日のあの人との会話、ちょっとしくじったなぁ。怒ってないかなぁ」とかそういうやつ。
普段私たちは、このコンテンツと意識がすっかり一体化している。その思考や感情こそが自分だ!と思って前のめりで没入している。だから日常はスリリングだし、結構しんどい。
でも瞑想をすると、この現実との距離感がちょっと変わるのだ。ちょっとずつだけど、確実に。
瞑想をしていても、もちろん思考はどんどん湧いてくる。でも、湧いてきながらも、同時に身体や呼吸にも意識を向けている。足の先から頭の先まで、意識を満たして感じてみる。すると前のめりに狭い空間に没入していた意識に少しだけ余白が出てくる(まっすーさんはこれを「スペース」と言っていた)。
すると、ふと気づく。
あ、「この鳥(思考、感情、出来事)こそが自分だ!」と思い込んで、前のめりに世界を捉えていただけど、実は自分とは、背景であるキャンバスの方だったんだ!と。
思考も出来事も呼吸さえも、この「私」という広大なキャンバス上に現れては消えていく通過物でしかなく、それを眺めるこのどしんとした意識・身体そのものが私だったのだ、という気づき。図と地が反転する驚き。
もちろん瞑想が終わればそんな感覚も溶けてしまうのだけど、続けていくと日常にも段々とそんな時間が増えていくのではないか?と思っている。
そんな変化を楽しみに、しばらく瞑想を続けてみようと思う。