いつから私は社会に対して泣ける人になったのか
この社会に対して怒れなくなったら、きっと私は私じゃなくなる。
いつも怒ってるのか?大丈夫か?と言われそう。まあ落ち着いて。
身近な交友関係がうんと広いわけではないけど、ある時から私はSNSで 攻めたこと を書くようになった。
私の中の勝手なカテゴライズでFacebookは社会的なこと、わからないことを書いていい場所、TwitterとInstagramは友達と遊んだことの記録というか話すほどでもないことを残しとく場所という感じだったののだけど、そういうの辞めた。笑
「ある時」とはいつか?
覚えてないけど、多分、帰国して、私の再生プロジェクト(今命名した)をしてた頃かな。
留学する前と後の私は違う人格だってよく言ってしまうけど、留学前だってその兆しはあって、部活サークル内のセクハラパワハラに怒ってたし、行動力の鬼だったし、いつも戦ってたな。(戦い方ド下手)それでも 普通 に憧れてた部分がすごくあったと思う。
「攻めたこと」ってなにか?
なんだろう…社会的なこと と言われていること?
正直攻めてるつもりはなく、楽しい、おもしろい、と同じように感じる 悲しい、悔しい、を意識的に省くことなくなんでも発しているような感じ。
かっこよく言えば、社会変革の非日常化計画の一つ。
私の感じる生きづらさや、憤りや、モヤモヤは、特別なことをしている時ではなく、毎日の生活の中で起こる事なのに、私の日常生活を作る周りの人にはあえて伝えず、受け入れてもらいやすい場所で話題にしたり共感をもらって満足するのがなんだかおかしいな、と思ってしまった。
今まで、
「今日もバイトがどうだった」
「誰と遊んだ、飲みに行った、最高だ」
「ああ菅田将暉すき…」
とかばかりツイートとかしてたのを、
「菅田将暉」
「参院選の争点」
「ジェンダーバイアスしんどい」
「国外逃亡したい」
みたいな感じになった。(今も間違いなく菅田将暉〜〜とか、友達が〜〜とかもよく嘆いている。)
そんなことばかり主張していると、学歴アピールかとか、偉そうだなとか、目障りだなとか、独りよがりだとか、逆にすごいね、とか思われてるんだろうか。笑
それとも、鍵かけてるアカウントだから守りに入ってる、とかかな。
(鍵付き問題は、真のセキュリティ的には意味ないかもだけど、私個人としては大きな問題なので外せない理由ある。命大事。)
「バイト先の人に"女性らしく、年相応に"と言われた。どうして私の見た目から、勝手にジャッジするんだろう。」
「東京レインボープライドに参加した。同じ人間なのに望む形で好きな人といることができないのはシンプルにおかしいと思う。」
そんなことばっかりツイートしてたら、"あの子は同性愛者なのか" と友達の友達くらいの人に言われたり、"そう受け取られる言い方をしてるよ、大丈夫?" と教えてくれる人もいたりした。よく見ててくれたなあ、と思ったけど、
あの日代々木公園にいる人たち = 当事者 と捉えられ、
#LGBTQ #セクシャリティ #性別 #普通とは #私は私らしく なんかを発信すること = 当事者 と捉えられる社会なのか!
なんだかびっくりしてしまう。
私が好んで議論をする人たちや、それに付き合ってくれる人、私の周りで議論の余地を与えてくれる人たちとの間には、そんな前提は存在しないと私は認識していたけれど、それは私の認識であるし、伝え方を気をつけなくてはと思った。
そして、私がそんな人たちに囲まれて生きていることは紛れもなく "特権" なんだと思う。そういう環境で試行錯誤したり、承認されたりして、尊厳を保っていられる私は本当に幸せだ。
(宮台真司(2008)『14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に』世界文化社 を今読んでて影響された発言してます。)
話を戻すと、私は誰かのために怒ったり、涙を流したりできる "優しい" 人間ではなかった。わがままだし偉そうだと思う。話し方とかね。人のことバカにしてるでしょって言われたことあるし。無意識に自己責任論をサポートしてた気がする。まあ昔から知ってる友達とか同級生とかはそう思うはず。
だからって、今の私が "優しく" なったわけではない。
おかしいと思ったことに素直におかしいと言うことにした、という感じ。
今の世の中はおかしいことがたくさんだ。(いつもなのか?)
自分の利益とかウチの利益のために人権が踏みにじられてても、それに対してウケる〜って笑ってたり、何もしないという暴力を振るっていたり(中立は多数派への加担と同じ)、おかしいと声をあげた人を冷めた目で見たり…何が好きでこんな社会で生きなきゃいけないのかと真剣に悩んだ。よく悩む。悲しいし悔しすぎる。
生きにくすぎるし、こんな社会で結婚して、子育てして、幸せな未来のイメージなんてできるわけがないよなあ。
個人的には海外移住しようかとか企てたし、いつでも考えてるけどね。
でも、私が日本社会にこだわるのは、私のような特権を享受していない大好きな人がいたり、日本が好きだと言ってくれる友達がいたり、自由に声を上げることが許されない国に住む友達がいるから。
ちょっと前まで私の心配事の種は、自分周辺の社会のことばっかりで、
「彼氏に振られた〜〜」とか「人間関係構築が〜〜」とか言ってしょっちゅう泣いてたけど、本当は社会の不条理が一番許せなくて、ひどいニュースがあるたびに怒って騒いだり泣いたりしてる。変化。
好きだった人が消えていく感覚、捨てられたと感じたり、捨てられないと感じたり、私がどこで何をしていても好きだと言ってもらったこと、私の尊厳をキープさせてくれた会話、外から好きだったモノを眺めた時間、好きだったモノを好きだと言ってる自分が好きだっただけだと気付いたこと。
なんて説明したら伝わるのか全然わからないけど、この5年半なのか2年なのか、きちんと私の大事なものがわかるようになった。
前まで、まあまあひどい言葉を言われたら、すぐ傷ついて、でもひどい言葉を言ってくれる人こそが私にとって必要な人だと拡大解釈したりしてたんだけどな。笑
私のことを、私の騒がしいSNSを、嫌いでも鬱陶しく思われてもいいから、それでも社会が良くなるならそれでいい。全然しんどくも悲しくも悔しくもない。それでもいいから生きやすくなってほしい。
社会は役割分担だ。
あれもこれも大事だし手を出したいこともあるけど、全部は出来ない。
私は私の特権と強みを理解して、不条理と闘いたい。そういう人と一緒に闘って生きたい。(菅田将暉氏も闘う人だと思ってるよ!)
私の思考を支えてるのは、私の尊敬する人たちとか大好きな人たちとの会話だったりする。
考えるのを辞めたら人間じゃないし、行動の原動力はわくわくと怒り。変化を非日常にしない。
自分の考えをうまく伝えられてなかった5月、指導教授が今年の東大祝辞を私たちに配ってくれた。上野千鶴子先生のやつです。
私を突き動かしてきたのは、あくなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。
あななたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
出所:東京大学ホームページ 2019/07/22閲覧
同じこと言ってた。
昨日も今日も参院選を前にいろんなしんどいニュースが溢れてるけど、1ミリも私たちの生活に関係がない なんてことはありえない。そんな悲しいこと言わないでくれ。
私はずっとここでたたかうよ!
肯定されたくてたまらない と思いながらギリギリ生きています。