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葉巻と、それを吸う愛しい人 episode-17

  その翌日の夜、キースから電話が掛かってきた。
「…マリア?」
「キース?!」
「ごめん、昨夜君の答えは聞いたんだけど、肝心な話があんまりできなかったから…もう少しだけ聞いてもいいかな?」
「……ええ」
「……ひょっとしてさ、君…本当は誰か付き合ってる人がいるんじゃない?ジェシーは、もう3年ぐらいマリアはボーイフレンドも好きな人もいないって言ってたけど…」
マリアは言葉に詰まった。何かそう思わせるような素振りを見せてしまっていただろうか?
「何となく、昨夜もその前も何か考え込んでる様子の時があったからさ」
図星を指されてマリアは余計言葉が出なくなった。
もしその相手がフランクでなかったら、…ジェシーのパパでさえなかったら、正直に言ってしまえたのにと思った。たとえ相手が既婚者であったとしても、それならまだ世の中にはよくある話ではないかと思えた。
…まさか、あの場にいた親友の父親と恋愛をしているなんて、誰が聞いたって驚くだろうし軽蔑されるだろう。
マリアは自分がものすごく最悪の人間に思えてきた。
「もしかして……つらい恋なんじゃない?」
「ううん!違うの、全然そういうわけじゃないの。そういうことじゃなくて…私本当に、あの、誰かと付き合う気になれないの。だから…ごめんなさい、私…」
「いや…ごめん、立ち入った事を聞いて。君が謝ることは全然ないんだよ。……でも、もし君がつらい恋をしてるなら救い出してあげたくなっちゃうけどね」
キースに言われて、マリアは何だか色々なことが悲しくなって泣きそうになってきた。キースは優しい声で、
「世の中ってうまくいかないこと沢山あるもんね。自分が好きになった人が他の人を好きだったり、他に…パートナーがいたりさ」
マリアは苦しくなってきた。キースはきっと、マリアの相手が既婚者だということまではもう気づいているのだろう。
「君は…君みたいな素敵な子は…ちゃんと自分の愛してる相手から一番に愛されるべきだと思ってるけどね」
「………」
「…ごめん、ほんとに立ち入り過ぎちゃったな。人の気持ちがそんなに簡単にコントロールできたら誰も苦労しないよね」
マリアはもう、一言でも喋ったら泣いてしまいそうだった。
「…本当にごめん。本当は電話もすべきじゃないとは思ったんだけど…でも久しぶりに好きになれそうな子に会ったもんだからつい…」
「………」
「……それじゃあ、もう僕からは電話はしないけど……もしも君の気が変わったり、ものすごく淋しくなったりしたら電話してよ。僕は当分1人だろうと思うからさ」
「……ありがとう…」
マリアはもう震える涙声になりながら何とか一言だけ言って受話器を置いた。

 その途端に涙が溢れてきた。
何だかとても心細くなった。何も知らないキースが優しい言葉をかけてくれたことで、逆に自分がしていることの罪の大きさを感じてしまった。
キースが想像しているより更にひどいことをしている自分……親友の父親と恋愛をしている自分。
いけないということは十分すぎるほどわかっている。
でも、それでも、どうしてもフランクのことが好きでたまらないのだ。
こんな罪深い恋愛は続くはずがない。きっといつかフランクと別れなければならない日が来るだろう。
いつか、ではない。本当はすぐにでも別れなければいけない相手なのだ。
そう思うと後から後から涙が出てくる。
久しぶりにマリアは声を出して泣いてしまった。

***

 そして、そんな時に限ってフランクの仕事がいつも以上に忙しく、会うことも電話で話すこともできない日が続いていた。10日ぐらいあれば片付くと思うとフランクが言っていたのだが、もう今日で12日目である。
 マリアはいつ電話がかかってきてもいいように、毎日会社から真っ直ぐ帰ってきてフランクからの連絡を待ち焦がれていた。2、3日前からはベッドの横に電話を持ってきて、もし寝てしまった後でもすぐ出られるようにしていたのだが、結局電話はかかって来なかった。
 そして今日も、もう12時になってしまった。
 まだ忙しい日が続いているのだろうと落ち着いて思う一方、もうこのまま会えないということもあり得るような気がしてきてしまう。
 この間フランクと別れることを具体的に想像してしまって以来、何かというと想像が悪い方へ悪い方へと向いてしまう。
ずっと胸が痛くて、家にいるとすぐに涙が出てくる。
気を紛らわそうと本を読んだり雑誌を見たりしても、ちっとも頭が切り替わらない。

 ふと時計を見るともう深夜1時を過ぎている。
この時間では、たぶん今夜も電話はかかってこないだろうと思い始めた頃、突然電話のベルが鳴った。反射的に受話器を取ると、
「マリア?」
フランクが優しく自分を呼ぶ声を聞いただけでもう涙が出てきた。
「まだ起きてたかい?」
「……おじさま…!」
フランクはマリアが涙声なのに驚いて、
「どうしたんだい?何かあったのかい?」
「ううん!…違うの、おじさまの声聞いたら嬉しくなって…」
そう言いながらも、喉の奥が痛くなるぐらい涙が溢れて声が出なくなってしまった。
「……マリア、こんな遅い時間だけど今からそっち行ってもいいかい?」
「…来てくれるの…?」
やっとのことで声を出して聞くと、
「ああ3、40分は掛かっちまうと思うけど大丈夫かい?」
「…嬉しい…すごく」
「じゃあ待ってて」
そう言ってフランクは電話を切った。

 30分と少し経った頃、マリアの部屋の玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると葉巻を咥えて真剣な顔をしたフランクが立っていて、マリアの顔を見た瞬間に葉巻を手で受けて両腕を拡げた。
それを見た瞬間、マリアはドアを開ける前に拭いたばかりの涙がもう出てきてしまった。
「…おじさま…!」
目も鼻も赤くしたマリアが言うのと同時に、フランクがマリアを抱きしめた。
「どうしたんだい?一体」
マリアはまた涙で声が詰まってしまった。

 その後ソファの上でフランクがずっと強く抱きしめてくれていたので、マリアもだんだんと落ち着くことができた。マリアは大きく息をして、
「…もう大丈夫。ごめんなさい」
と言った。
フランクは身体を離して、マリアの顔を見た。まだ目と鼻が赤かったが、さっきよりは落ち着いた顔で笑っている。フランクも少し安心して笑顔を返した。
「…おじさま、本当は来られるはずじゃ無かったんでしょう?…ごめんなさい」
「いや、遅くなったからやめようと思ってただけで、お前さんには会いたかったんだ」
「…おじさまってどうしてそんなに優しいこと言ってくれるの?」
マリアはまた目の奥が熱くなってしまう。
フランクは両手でマリアの頬を包むようにして、マリアの目を見ながら
「何かあったのかい?」
と改めて優しい声で聞いた。マリアは首を振って、
「ごめんなさい…何があったわけでもないの。…なんか色々考えてたら心細くなって…」
と言い、キースと思いがけず再会した話から始めて、その後電話でキースに言われたことや自分の罪悪感や不安や淋しさまで、考えていたあれこれを全部正直にそのまま話した。
フランクは葉巻を吸いながら一言も口を挟まずに黙って話を聞いていたが、マリアが「いつかきっとおじさまと別れなきゃいけない日が来ると思うと…」と言って、また目にいっぱい涙をためた時、初めてマリアの口から「別れ」という言葉を聞いて、フランクは胸が苦しくなった。思わず目をつぶって頭を振り、
「マリア」
と言った後しばらく黙っていたが、やがて思い切ったように、
「あたしはね、お前さんと別れるっていうことは、もう考えられなくなっちまってるんだよ」
と言った。

 フランクは、これまでマリアに対する自分の気持ちを幾度も整理していた。
自分はマリアの身体に溺れているだけなのかもしれないと考えてみたり、ローズへの愛とマリアへの愛の違いがあるのか無いのか考えてみたり、思いがけず始まった関係に一時的に正気をなくしているだけなのではないかと考えてみたりしていた。
 しかし、何度冷静に踏みとどまった方がいいと考え直してはみても、ふとした時にマリアに会いたくなる気持ちや、マリアの顔を見て話をしている時の安らいだ気持ちや、二人でお互い笑わせたり笑わされたりしている時の気持ちは、他のものに変えがたい気がした。
一時的な激情めいたものを差し引いたとしても、マリアの存在が自分の中を大きく占めているのは確かだったし、マリアのいない毎日を想像しただけで苦しくなる。
他のものをみんな失ったとしても、マリアがいるのならばそれだけでいいような気がしていた。

 マリアは一瞬嬉しい言葉を聞いたように思ったが、真意がわからずフランクの目を見つめたまま黙っていた。
「もし、あたしの人生からお前さんがいなくなっちまったら、その先生きていける気がしないんだ。…大袈裟だと思うかもしれないがね」
そこでちょっと肩をすくめた。
「….…だから、たとえローズとジェシーを悲しませたとしても…」
と言って、また言葉を切ったが、
「お前さんと一緒になりたいと思ってる」
マリアは驚きすぎて息が止まりそうになった。
何か言おうとして口を開いたが言葉が一言も出てこない。
「………」
フランクはマリアの顔を見たまま黙っている。
「だ………」
マリアはフランクの目を見たまま、首を小さく何度も振りながら、ようやく言葉を絞り出した。
「だめ…!だめよ、おじさま!…そんなの絶対だめよ」
フランクはまだ何も言わずにいる。
「そんな……!だって…だめよ、私のせいで…おばさまとジェシーを悲しませるなんて……そんなの絶対にだめよ…!」
動揺して我を失っているマリアに対して、フランクは静かに、しかし真剣に口を開いた。
「マリア、お前さんのせいじゃないんだよ。あたしは、たぶんお前さんが想像してるよりずっとお前さんのことを愛してる」
「………!」
マリアは両手の指先で口を押さえ、目を強く閉じた。瞼を閉じても涙が溢れて止まらない。再び目を開いて涙をぽろぽろこぼしながらフランクを見ると、フランクも真面目な顔のままマリアの目を見ている。
そして更に言葉を続けた。
「今思いついて言ってるんじゃないんだ。あたしも考えてたんだよ、どうするべきなのか、ずっと。その上で、もし自分がお前さんのことを手放したら、その先一生後悔するだろうとわかったんだ。……だから」
もうマリアは涙が止まらず、今にも声をあげて泣いてしまいそうになっている。
「結婚してほしい」
マリアはついに声を出して泣きながらフランクに抱きついた。
「愛してるよ、マリア」
フランクもきつくマリアを抱きしめた。そして葉巻を持った手でマリアの髪を撫でながら言った。
「これから大変なことも沢山あるだろうけど、お前さんさえ傍にいてくれれば何とかできそうな気がするんだ」





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