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他人を裁くより、自分を裁くほうが、ずっと難しいものじゃ 星の王子さま、禅を語るより

主人公(しゅじんこう)
禅の世界では、人間本来の自己、アイデンティティのことをいう。
いつも我執(がしゅう)に振り回されているような自己ではなく、本当の自分自身  

星の王子さまが出会う第一の星の住人は、
すぐに命令したくなる病気の王さま。
王子さまがあくびをしようとすると
あくびをしろと命令、あくびが出なくなる
と、ある時はあくびをし、ある時は
あくびをしないでいろと命令する。

「命令病」というか、「指示病」というか、
そんな「病気」に命令され、指図されて生きる人間は、他人が何かしようとすると、すぐに余計なお節介を始める。する方は、それが生まれもった業だから、ほとんど無識に口が動いてしまう。される方はいっぺんに意欲を失ってしまうもの。ずいぶん傍迷惑(はためいわく)なことです。
出典:「星の王子様、禅を語る」重松宗育

他の星へ去っていく王子さま。
王さまは慌てて、法務大臣にしてやろうと
言い出します。しかし王さま以外に裁判する
相手が一人もいないので、王子さまは
不思議に思います。

「それでは、自分自身を裁くがよい。
そいつが一番難しいことじゃ。
他人を裁くより、自分を裁くほうが、
ずっと難しいものじゃ。もしも自分を正当に
裁くことができたら、それは、お前が本当の
賢者だからだ。」
出典:「星の王子様、禅を語る」重松宗育

私たちは、他人のこととなったらいくらでも
欠点を見つけ、得意げに指摘する。
自分のことは棚にあげて。

「相手の欠点なら、ちょうど高性能なカメラで
写すように、くっきりと映る。ところが、自分
のこととなるともうお手上げです。
まるでピンボケ写真。これは、目玉というものの構造のせいです。
目玉は外側へ向かってついているから、
他人の粗(あら)ならはっきり見えても、
自分の粗は見えない。
自分の心の内側を見る「心の眼」がないと、
どうしても見えないのです。
出典:「星の王子様、禅を語る」重松宗育


自分の心の内側を見る「心の眼」

前章でも出てきたキツネの言葉

「心で見ないと、ものは決して正しくは
見えないよ。肝心なことは、目には見えない
のだから」

他人を見た目や肩書きで判断してしまって
いませんか?

私はやはり時々無意識にしてしまっていることがあります。
・すごい肩書きの名刺に圧倒される
・道をいつも歩いてる不思議な格好の人を
一瞬「変わった人だ」と思ってしまう
・若い世代の人に「まだまだだな〜」なんて
思ってしまう 

こんなふうに思う自分って、どんな立場で
その人を見ているんだろう、
って問いたくなってしまいます。

一瞬で色メガネで見てしまう
自分の物差しでしか人を判断できない…

肩書きは、たまたまその人が社会的立場に
おける表現のひとつ
(肩書き以外の面のほうが、圧倒的に多い
ですよね)

いつも歩いてる変わった格好の人
きっと何か信念があるんだろうな、
聞いてみたい!!

自分より若い世代の人たちが考えてる
ことって、案外自分よりしっかりしてたり
します。
むしろ新しい!

一度その色メガネを外して、
自分の物差しも使わずに想像力を
素直にふくらまそう

いつものクセで、きっとあの人はこうだ、
ってついつい決めつけてしまうなんて、
ほんとに失礼ですよね。

人に興味をもとう!
その人の仕事や肩書きではなく、
その人の人生観、なにを大事に生きてるか

写真を撮ることが好きだからでしょうか。
ファインダーをのぞいてその人を見た時、
また映った写真を見た時に、
その人の本来の人間性みたいなものが
感じられるような時があります。

そんな時、想像力がふくらんで、
もっと知りたい!話してみたい!って
思う、行動する。

これが本来の自分の眼なのかな、
その時自分はきっとワクワクしてるはず
だから

すこし本論とズレてしまいました。

そしてもう一つ、本章の中で
「自分自身のありようこそ問題」
と筆者は言います。

宗教にとって肝心なのは、大いなるもの、
絶対なるものと自分との関係であって、
本質的には他人の目などどうでもいいのです。
一人この世にやってきて、一人この世を
去って行く。
そんな、たった一人の自分自身のありよう
こそ問題だからです。肝心なのは、「主人公」のありようであって、禅僧が「慎独(ひとりを
つつしむ)という言葉を大切にするのは、
このためです。一人でいる時こそ、最も
自分に厳しくありたいと願うのです。
出典:「星の王子様、禅を語る」重松宗育

肝心なのは自分自身

自分が自分を一番よく知っているから、
自分自身と向き合い、問い続けること、
なのかな、と思いました。

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