
ポストモダン帝国主義
近代には様々な社会問題が発生した。環境破壊や人種差別がその一例であるが、科学技術と人間の傲慢がこれらを引き起こしたとされている。人間が豊かさのために環境破壊をし、植民地の原住民をこき使うに足りる科学技術があったからだと。しかし、その考えは正しいのだろうか。自分が「できる」ということとそれを実行に移すことは違う。法律が仮に殺人を許したとて、実際に人を殺そうと思う人は少ないだろう。社会問題の本質は、科学技術の発展ではなくその残酷性をも看過した意識そのものにあるといえる。では、近代に植え付けられたその意識はなんなのだろうか。人の意識は社会に影響されるが、近代とそれ以前の社会の大きな違いは科学技術の興隆である。よって、科学技術の性質を考察すれば、そこに内在するその意識を抽出できるだろう。
まず、近代科学の基礎はデカルトから始まる。宗教などの様々な真理を皆がばらばらに語っていたため、まず疑いようのない基盤を作ろうと考えた。そして、自分の自我こそが絶対的に存在すると定めた。(ここでは自我中心主義と呼ぶこととする。)疑いようのない自我を出発点とし、世界の真理を理解しようと科学が発展していく。そして、世界を物体と精神を独立したものと考える心身二元論が生まれる。これによって物体から精神性を排除し、世の中の動きを見ることができるようになった。このように自然科学の研究が進み、人々は物体が単一の物理法則にしたがうことに気づく。これにより、機械論的自然観、文字通り、自然を魂がなく合理法則に従うだけの機械とみるようになる。そして、その機械を分析するために生じた思想が要素還元主義である。物事全体を考えるにおいて、全体を部分に分解し、それらを考察して統合して同定するということだ。実際に力学において複数の物体の動きを考えるときは、一つ一つの力を足し合わせて一つの物体ごとの動きを予測し、それらを統合する。また、科学は他の既存の規範に比べ、あまりに正しさが明確で普遍的である。近代以前の論語や他の漢文の理論を比べると矛盾した論がたくさん見つかる。例えば、主君に逆らってでも主君のために諫めるべきと言う書や、逆に主君が悪くても従うべきと言う書物もある。科学は様々な説が出ても、いずれ必ず正しく一つに定まる。このような科学の普遍性に魅了され、普遍主義が生まれる。この世界には普遍的に正しい真理が存在するはずだという科学を賛美する考え方だ。また、啓蒙主義も生まれる、人間は教育すれば合理的な人間に必ずなるという考え方だ。
これらが近代の社会問題を引き起こしたことは言うまでもない。還元主義によって自然を単純視した結果、生態系の破壊が起きた。つまり、人間に害のある種を駆逐した結果、生物同士の複雑なつながりである生態系を考慮できず、生物の連鎖的な絶滅が起こった。また、人種差別は普遍主義や啓蒙主義から発生している。原住民と西洋人を比較し、前者は未発達で野蛮だというレッテルを貼り、後者を優れたものと見ている。マニフェストディスティニーはまさにその通りである。西洋人が正しいからこそ、原住民に文明の洗礼を浴びせるために何をしてもいいという考え方である。また、自殺や売春も心身二元論や機械論によって静止力が弱まる。肉体は只の機械である故、精神を肉体より高尚と位置づけ、精神が肉体を支配すると考える。そして、自身の精神は肉体の所有権を持つという考え方が生まれる。「他者危害の原則」はいい例だ。このような社会は自殺や売春を止められない。「他人に直接被害を与えてないのだから何をしようが自由だ。」という考えを否定できないからだ。また、ヒトラーによるユダヤ人虐殺にも説明がつく。あの虐殺を看過していた当時のドイツ人は冷酷だったのだろうか。いや、国民全員が冷酷だなんてあり得るはずがない。理性への信仰から、近代人は他者に冷酷にならない手段として温情主義やパターナリズムを生み出した。相手への同情や憐みの気持ちに従って行動しようとするこれらの思想は、結局は自身の感情における満足の尺度でのみ人を助ける自我中心主義の枠組みから生まれたものに他ならない。当時、多くのドイツ人が失業し貧しい暮らしを送っていた中、自国内で裕福に暮らしているユダヤ人。その相手に同情のまなざしを向けられるわけがない。このように近代合理主義こそが社会問題を形成している。
我々は今、生態系に対し予測不可能であるため極力干渉しないというスタンスをとっている。また、異民族を差別するのではなく、文化が多様であることを認めようという動きが起こっている。これらのカオス理論や相対主義は、要素還元主義や普遍主義ときれいに対を為している。現代の社会問題への対応はこのポストモダンの思想に則って行われている。
ここまでは近年の哲学において一般的に言われている事の確認にすぎない。問題はここからだ。
未だ多くの人間が近代合理主義とポストモダンを理解せずに生きている。学校における道徳教育は温情主義とそのアンチテーゼであるケアの理論という明確に異なる両者を区別せずに教えている。また、特に日本人に多いが、神や幽霊を非科学的だから存在しないと抜かす人間もあまりに普遍主義的だ。神は実在するか確かめようがないため、カントは科学の学問領域から神などを外し、その領域に則って科学は進歩してきた。つまり、そもそも神は科学の研究対象ではない。確かに物理の根底である運動方程式に神は従わない行為をしているかもしれないが、運動方程式に従わないものが存在しないとは証明されてない。それに従わないものは考えてもどうしようもないため、科学はすべてそれに従うと仮定して話を進めているのだ。(厳密には、運動方程式は運動の記述の仕方を式に表したものである故、ここではニュートンの運動に関する法則全般と言うほうが良いかもしれない。)
現代人のほとんどは「人種差別はダメ!LGBTなどの多様性を認めよう!」といった定言命法のみに目を向け、その根底にある近代合理主義の欠点とポストモダンの思想を全く理解していない。そのような状況では真の意味で社会問題を解決することはできない。新たな想定していなかった課題が生じた時に同じ過ちを繰り返すに違いない。例えば、人類がそれより幾分か文明の遅れた宇宙人の星に訪れるというケースを考える。近代の西洋人にとっての黒人のように、宇宙人にも人間同等の知能があり、労働力として優秀であるとしよう。私たちが”人”種差別いけないとうい定言命法で繕っただけのパターナリズムに囚われていれば、黒人奴隷の悲劇は必ず繰り返される。それはなぜか?かわいそうだと思って流石に止めるのでは?と思う人もいるかもしれない。しかし、彼らは人間が嫌悪を感じるような、言ってしまえば気持ち悪い見た目をしているかもしれない。虫のような見た目かもしれない。もしそうであるならば、誰が彼らに憐憫の眼差しを向けられるだろうか。パターナリズムを行動規範にしている限り、それが近代合理主義、とりわけ自我中心主義に支えられた理論であるがゆえに、その自我中心主義的な一面が意志決定に表出しないはずがないのだ。つまり、自我、自身の感情を行動規範にするがゆえに、気持ち悪いという感情にも行動を左右される。憐憫などの自身の感情という、常に正しく発露するか分からないものに従っていることが問題なのだ。また、環境破壊の歴史を見ても明らかである。近代において環境破壊を止めようとしたロマン主義がある。自然を単純化し支配しようとする人間に対し、自然はもっと偉大なものであると呼びかける考えであるが、それも自然へのあこがれという自我中心主義にすぎない。近代合理主義に従い行動する人間に対し、ロマン主義と言う「同じ穴の狢」で対抗しても静止力があるはずがない。結局近代の環境破壊は全く止められなかったのだ。このように、近代合理主義を行動原理の第一に据えることは危険である。
ポストモダンの理論に基づき、近代合理主義的思想を持つ人間を否定するつもりはないが、SDGsだの多様性だの環境保全は、きちんと近代合理主義やポストモダンについて理解してからのたまうべきである。「SDGs教育」などをする教員は猶更だ。また、欧州の過激な環境活動家が環境保護と言う正義のためには仕方ないことなのだと言いながら芸術品を汚すなどの行為をしているが、彼らもまた何もわかっていない。そのような普遍主義的な態度は結局環境破壊の理論と何ら変わらないため説得力がない。事実、彼らの訴えは全く相手にされていない。
結局、人間は思想の完成などの漠然としたものは自己目的化し、その目標を絶対視しない限り行動ができないのだろうか。マジョリティの脳の限界なのかもしれない。嗚呼、こんな世界の様子をかつて見たことがある。これこそ「ポストモダン帝国」であったか。
追記
もとい学校祭の文芸誌に寄稿するために書いたものであるため、特定の思想(特に過激なもの、例えば近年のラディカルフェミニズムや環境保護論者等)に対する批判を控えめにしたため、だいぶ説得力に欠ける文章になってしまった。(誤解しないでほしいが、多くの人間は過激な環境保護論者に対し、環境保護がしたいのに、ペンキなどを使った抗議活動で街を汚染するという本末転倒な事態を批判しているが、私の批判はそうではない。もっと広い、ポストモダニズムと近代合理主義という観点で、近代合理主義を否定する運動に関わらず、正義のためなればという普遍主義、すなわち近代合理主義に走っているといった点が本末転倒だと批判しているつもりだ。)
より具体例を挙げ、わかりやすく、実用的になるよう、編集して再び投稿するつもりである。今は受験期でもあるのでその時間がなく、かといって誰かには読んでほしいという承認欲求が勝ってしまったゆえに、ただ文章を羅列させるだけの簡素なページとして一旦投稿させていただく。
所詮、並の高校生レベルの知識しかない奴が語っていることなので、思想、主義の解釈について間違っていることもあると思います。私は豆腐メンタルなので、できるだけ優しく指摘していただけたら助かります。