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SNSは大人を幼稚にさせた。【後編】

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 「すみません、先生」学級委員長が手を高く上げた。「ちょっと話し合いたいことがあるんです」教師の許可を得て、学級委員長は滔々と話し始めた。クラスメイトのA君の態度が非常に悪いこと、先日A君を注意したところ、口汚く暴言を吐かれたこと。その暴言で、自分は深く傷ついたこと。帰りの会はそのまま『A君の素行の悪さについて』話し合う場となった。どうやら帰りが遅くなりそうな雰囲気を察し、クラスメイトの大半はうんざりしたような顔になった。しかし誰もそれを口にはしない。教師が止めていないし、学級委員長の目に涙が溜まっていればなおさらだ。
 学級委員長は身体を小さく震わせながら、「A君に謝って欲しいです」と言った。学級委員長の友人である女子の数名は「そうよ、そうよ」「謝ってよ」とA君をきつく睨みつけた。別に友人でもない男子の数名も面白がり、「そうだ、そうだ」「謝れよ」と囃し立てた。クラスメイトの大半は心の中でどうでもいいと思ってたが、わかっているのはA君が謝ればこの場が早く終わり、そして自分たちも早く帰れるということだった。だから黙り込んだA君にクラスメイトの大半も白い目を向けた。「早く謝れよ」「お前が謝ればとりあえず終わるんだから」「よくわからないけど、お前が悪いんだろ?」それでも黙り続けるA君に、どうでもいいと思っていたクラスメイトでさえ、いつしかA君に怒りが湧いた。「いいから早く謝れよ!」
 そのとき机の下で握り締められていたA君の拳の震えを誰も見ようとしない。彼の悔しさを、屈辱を、誰も気にしない。この場にいる全員が関心があるのは、彼の謝罪の言葉だけなのだから。



 学校を卒業し、大人になり、あの学校での日々を思い出すと、自分がいかに狭い世界で生きていたのかという事実を懐かしく、そして非常に馬鹿らしく思う。
 学校に通っている子供にとって、学校が自分の世界のすべてと言っていい。その狭い世界の中では一度できあがってしまった『空気』というものは、いかに強大で、抗い難いものであったかということを思い出すと、非常に馬鹿らしく、そして懐かしく感じる。

 その『空気』を守るために、自分がいかに他人の気持ちを無視したか。ないがしろにしたか。そしてそれを仕方ないがないことであると自分を納得させてきたか。
 大人になって子供のときのことを思い出してはじめて、「A君もちょっとかわいそうだったな」と思うことができる。「A君は家庭環境が良くなかったみたいだから、きっとイライラしていたんだろう」「あんなにクラスメイト全員で責めることもなかったな」と思うことができる。少しだけ心が痛んで、だけどすぐに忘れる。なぜならあくまでそれは昔の話だからだ。

 そうだ、これはあくまで『昔の話』。決して空気に抗うことができなかった未熟な子供だった頃の話。限りなく幼稚でしかなかった子供の頃の話。
 

 


 わたしはこの記事のタイトルを「SNSは大人を幼稚にさせた。」とつけた。
 そもそも幼稚とはどういうことか。
 それは年齢が幼いということではなく、『言動ややりかたが未発達であり、成熟していない、レベルが低い』ということだ。
 大人であるのに幼稚、ということは、身体だけが成長して大人になっているが精神は成長せず子供のままである、ということである。


 なぜSNSはひとを幼稚にさせるのか。
 それはSNSには「ママ」がいるからだ。
 「ママ」というのは、人が本能的に求める、『理想の母親』そのものである。

 ママはなんでも受け入れてくれる。褒めてくれる。自分を認めてくれる。

 SNSを開けば、そこには不満が溢れる。「つらい、苦しい」「学校やめたい、仕事辞めたい」「あいつが嫌い、見たくもない」「死にたい」
 そうするとだれかがそれに共感する。「わかるよ、そうだよね」「つらかったね、苦しかったね」「あなたは悪くない、悪くないよ」
 特に現実世界の親にそうした言葉を得られなかった人間は、そうした言葉に子供の頃から飢えている。だからそれに共感してもらえるととてつもなく嬉しい。だからどんどんそうした言葉を吐き続ける。ママに優しく頭を撫でて欲しいから。

 そしてムカつく相手がいたら、子供同様、容赦がない。
 子供に正義はない、ときに理由もない。ただ気に喰わない、ムカついたというだけで相手を攻撃する。子供には相手の気持ちを考慮するという技術がないため、攻撃も過激になりやすい。終わりどころを見つけられなくなり、止める人間がいなければどこまでも酷く、むごく、相手をどれほど深く傷つけられるかということにしか頭にない。

 なんと、未発達で、未成熟で、レベルの低いことか。


 

 なぜ大人が『大人』であるのか。大人が大人といえるものは何か。子供との違いは何なのか。
 それは「相手の気持ちを考えることができる」という点だ。
 成長して、ひとはいろんな経験をする。それにより、それまで知らなかった相手の立場というものを知ることができる。
 働くようになった人間はお金の価値を知る。一人暮らしをするようになった人間は衣食住の有難さを知る。それを今まで無償で与えられていたことの有難みを感じて、初めて心の底から両親に感謝をする。
 自分が子供を産み、親になったとき、子供の頃あれほど偉大に思えた親もただの人間に過ぎなかったことを知る。そうしてはじめて、あれほど憎み、馬鹿にしていた親を赦せるようになるのかもしれない。

 ほどほどに傷つき、ほどほどに妥協し、ほどほどに相手を赦せるようになる。
 そうして人間は大人になっていく。

 

 


 だがちゃんと傷つく前に、共感だけを得られていたらどうだろう。
 嘆いたらちゃんと誰かがそれを慰めてくれる。誰かがそれに共感してくれる。「あなたは悪くない」と言ってもらえる。
 そうなるとどうなるか。そうなるとひとは嘆き続けるのである。

 

 「ねえ、聴いて、ママ、わたし辛いの!」

 「先生、あいつが僕を馬鹿にしたんです!」

 

 そうやって声を上げれば、誰かがそれに共感し、そして相手がいればその相手を自分と一緒に責めてくれる。自分を不快にさせた相手をあぶりだし、そして共感した人間が多くいれば、その大勢で集中的に攻撃してくれる。
 そうやって血祭りにあげられ、ボロボロになった相手を見て満足した人間は、相手を赦す機会を失う。相手を思いやる機会を失う。
 

 勿論、傷ついた人間にとって、そうやって『共感』を得ることもとても大事だ。そうやって心が穏やかになることもあるだろう。
 だがひとが成長することがあるとすれば、困難を回避することがあるとすれば、それは自分の言動を省みて、そして心の底から「変わりたい」と願ったときだけだ。


 

 SNSで誰かを攻撃したときに、その相手が迫害されるのはこの社会の中である。
 A君のようにクラスの中で迫害されるのと、社会の中で迫害されるのではまったく違う。そこには生活の基盤を脅かされ、下手すれば生命を脅かされるほどの危険がある。

 芸能人が何かの失言や失態を犯したときに、一時休業に追い込まれ、下手をすれば仕事自体を失うことがある。実際に、ネットでの炎上騒動が起きて仕事を失ったり、離婚に追い詰められた芸能人もいた。
  簡単に思うかもしれないが、働いているひとは明日から仕事を失うことがどれほど恐ろしいことか、そして結婚しているひとは明日からパートナーを失う恐怖を、哀しさを重々知っているだろう。

 だがおそろしいことに、現在働いている人間でも、そして結婚をしている人間であっても、そうした芸能人の迫害に加担する人間が非常に多い。いやむしろそういう人間は日々のストレスが溜まっていて、そのストレスのはけ口として芸能人を追い詰める傾向にある。
 
 

 

 どうしてそうなってしまうのか?
 それは『共感を得ると人間は強い快楽を感じるから』である。

 学級委員長が手を高く上げ、そして涙を目に溜めて「A君に謝ってほしい」と言ったとき、A君の謝罪の言葉も欲しいのだろうが同時に求めているのは『いかに自分が深く傷ついたか』ということに関しての周りの人間の共感である。
 だから周りから「そうだ、そうだ、謝れよ」と言われたときに非常にうれしい。とても気持ちが良い。だから共感してもらえると、人間はどんどん過剰に自分の悲劇を誇張する傾向にある。ああいう話し合いの場で人間の感情が高ぶりやすいのもその傾向のためだ。

 本当に自分は悲しんでいるのか、それともただ『共感の快楽』に溺れているだけなのか。もはやわからなくなる。
 どちらにしてもそのとき人間は、自分のことしか見ていない。

 

 

 『幼稚である』ということは、相手のことを思いやらない、相手の気持ちへの想像力の欠如を示す。
 そして「共感されることの快楽」に溺れたとき、人間はその状態になりやすい。

 SNS自体はとても素晴らしいものだ。『共感されること』で救われる人間も多いだろう。SNSを否定するつもりはまったくない。
 しかしどんなものでもいい面があれば悪い面もある。実際にこれほどSNSでの炎上騒動、いじめ、社会からの迫害が起きている今、SNSの悪い面についてもちゃんと考慮する必要性があると思う。






 
 
 

 

 

 

 
 

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