
【海外ボランティア録】アパルトヘイトの残像を越えて――南アフリカで私が見た未来
大学生の時、私は骨折をした。
腓骨が真っ二つになるほどの激しい骨折だった。
2日後からカンボジアで医療ボランティアをする予定だったのに。
旅費は全てキャンセル料がかかる。
ボランティアに向けてさまざまな予習や語学の勉強、さらには部活の中での日程のやり繰りなど半年近く準備してきたからこそ、骨を折った瞬間、その全てが走馬灯のように脳裏に浮かび、鋭く痛くて悔しくて泣いた。
身体的にも猛烈に痛かった、でもその時知ったのは心の痛みはもっと深く時間をかけて刻まれるということだった。
全治およそ1年と診断され、部活動や私生活も絶望的。
車椅子生活を余儀なくされ、先の予定は全てなくなった。
心のともしびがふわっと消える音がした。
怪我をして3週間が経つ頃、
病室でボーッとテレビを見ていた私は、ネルソンマンデラの特集を見た。
アパルトヘイト________。
学校の授業でやったことがある。でも遠い記憶だった。
途方に暮れていた私は、ネルソンマンデラの生涯を描いた1時間の特集をみたあと、居ても立ってもいられずにいた。
心のともしびは再び燃え始め、カンボジアのリスケジュールと同時に南アフリカでボランティアをしたいと、心が動いていた。
1. 30時間かけて辿り着いたケープタウン
私がケープタウンへ行ったのは、その4ヶ月後。
リハビリの甲斐もあって、ようやく少しずつ早歩きができるようになった頃だった。
大学の長期休暇を利用して約3週間の滞在だった。
南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)がかつて存在したという強烈な歴史を持ち、多様性と格差が入り混じる複雑な国だ。
ネルソンマンデラの特集をきっかけに、自分の目で見て学びたいという強い思いから、ボランティア先としてケープタウンを選んだ。
けれど、そこへ辿り着くのは容易ではなかった。
日本からのフライトは直行便がなく、中東や欧州経由で乗り継ぎを何度か挟む必要がある。
結果として、乗り継ぎの待ち時間やフライト時間を合計するとおよそ30時間かかった。

背中に重いリュックサックを背負い、寝不足でむくんだ顔のまま空港を乗り継ぐうちに、「本当にここまでして行く意味があるのだろうか」と一瞬弱気にもなった。
しかし、普段は体験し得ない長旅そのものが既に冒険のようで、疲労と同時に高揚感が込み上げてくる。
そしてようやくケープタウン国際空港に到着した。
鼻の奥につんと染みる北風が吹き始めた冬の初め。
日本とは季節が逆転しており、空港を出た瞬間に冷気が私を包んだ。
レンタカーで街中へ向かう道のりでは、壮麗なテーブルマウンテンが遠くにそびえ、海辺には爽やかな風が吹き抜ける。
「ここは本当に“アフリカ”なのか?」というほど洗練された都市の様子に、最初は少なからず驚きを覚えた。
しかし、のちに目にする“異世界”を考えれば、この印象はほんの一面にすぎなかったのだと痛感することになる。

2. アパルトヘイトの歴史と現在の影響
南アフリカは、かつてアパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策を実施していた。
第二次世界大戦後から1990年代初頭まで続いたこの制度は、白人政権が法律や制度によって公然と人種差別を行うものであり、黒人やカラード(混血)、インド系の人々が政治・経済・社会のあらゆる面で不当な扱いを受けることを正当化していた。


国際社会から厳しい批判を浴びた末、1994年にネルソン・マンデラ氏が大統領に就任し、この政策は公式に廃止された。
しかし、公式に“終わった”という事実は、長年積み重ねられてきた格差や差別感情が一朝一夕に消え去ることを意味しなかった。
むしろ、現代の南アフリカ社会には依然として大きな経済格差と人種間の対立が残っている。
ケープタウンを見渡せば、高級住宅街が並ぶエリアと、次々に増えるスラム街のエリアがあり、まるで別の国を見ているようだった。
黒人やカラードの多い地域はインフラが整わず、治安も悪化している。
その一方、白人が暮らすエリアには美しい街並みと高級レストランが立ち並び、豊かな観光客の姿があふれる。
この二極化こそが、アパルトヘイトの歴史が今なお大きな影を落としている証拠ともいえるだろう。
さらに最近では、黒人を中心に歴史的に抑圧されてきた人々を支援する“優遇政策”が進められている。就職や教育の機会において、白人より黒人やカラードが優遇されるケースがあるというのだ。
これに対して、貧困層に落ち込む白人の中には「今度は自分たちが差別されている」という反発の声も聞かれる。
かつての被抑圧者と被抑圧者が逆転し、混乱を招いている状況だ。
これは人種問題の根深さを象徴するような話であり、アパルトヘイトの負の遺産が南アフリカ社会のいたるところで尾を引いていることを痛感した。

3. ホームステイでの日常とスラム街でのボランティア体験
ケープタウン滞在中、私は黒人ご夫婦の家庭にホームステイをすることになった。
同じ家に滞在していたのは、私を含めた4人。
私以外には、オランダ人とイタリア人の20代の女性、そしてもう一人はニューヨークから来た60代の日本人女性。
彼女たちはアフリカで研究活動を行っていたり、別のNGOを通してボランティアを続けていたりと、目的はさまざまだが、皆アフリカの現実を学びたい・関わりたいという思いを持っていた。
昼間はそれぞれが活動先に出かけ、夜はホストファミリーとともに食卓を囲む。週末には一緒にサファリツアーに参加したり、山に登ったりしてケープタウン近郊の自然を楽しんだ。
夜の食卓では、その日スラム街で見てきたことや研究先での発見などを共有し合う。自分が感じたことを言葉にし、他人の視点を聞く時間は、想像以上に視野を広げてくれた。
「そういう見方もあるのか」「自分は気づかなかったけど、確かにこれは問題だ」といった発見が絶えず、初めて顔を合わせたメンバーでも、あっという間に打ち解けることができた。
生活面では、南アフリカ独特のルールに戸惑うこともあった。
深刻な水不足のため、シャワーを浴びられる時間は一人当たりごく短い。大きなバケツの中でシャワーを浴び、出た水はトイレを流す際に再利用する。
トイレも“小なら流さず、大のときだけ流す”のが鉄則だった。
日本ではまず経験しない工夫と制限に最初は気を使ったが、オランダ人やイタリア人の女性も同じ条件下で暮らしていると分かると、いっそ連帯感のようなものが芽生えた。
ただ、やはり生活習慣や文化の違いによる気遣いは少なからずあったと思う。
ホストマザーは50代半ばくらいの優しい女性で、私たちが帰宅するといつも笑顔で迎えてくれた。しかし、一方で彼女自身もアパルトヘイトの時代を生きた当事者だった。
ある晩、キッチンで食事の片づけを手伝いながら、彼女は先祖が受けてきた差別や、自分自身が若い頃に経験した苦難をぽつりぽつりと話してくれた。
どこの学校に通えるか、どこに住めるか、誰と結婚できるか——すべてが法律によって制限され、人種によって権利が剝奪されていたというその時代は、想像を絶するほど過酷だったはずだ。
だが彼女は、だからこそ「今は世界中から人を受け入れたいんだ」と言い、外国人の私たちを“家族”として迎え入れてくれる。その言葉が、私の胸に深く刻まれた。
そんなホームステイ先から、私は毎朝スラム街に向かい、ボランティア活動を行った。
私が特に携わったのは、AIDSなどの病気で親を亡くした孤児たちへの食事提供と栄養管理のサポートである。
南アフリカはAIDSの蔓延率が高く、適切な治療や啓発が行き届かない地域では感染が拡大する一方だ。
病気によって働き手を失い、わずかな収入すら断たれた家庭も多い。
結果として、幼い子どもが突然孤児になり、親戚や地域のコミュニティに助けられる形でなんとか生き延びている、という状況は珍しくない。
週に何度か開かれる食事提供の場では、子どもたちがずらりと列を作る。年齢はバラバラで、まだ歩き始めたばかりの子から10代前半までさまざまだ。
少し大きい子が小さい子をあやしながら並んでいる姿を見て、「この子たちはどんな家庭環境で育っているのだろうか」と思わず胸が痛くなる。外では埃っぽい風が吹き、衛生面も万全とは言いがたい。その中でも、子どもたちはこちらに無邪気な笑顔を向けてくれる。
4. 現地の食事作りに見る工夫と壁
子どもたちに提供する食事のメニューは、栄養バランスを考える必要がある。
子供たちの成長や健康を考え、高タンパクでビタミンやミネラルをしっかり摂取できるよう工夫しなければならない。だが、資金も潤沢ではなく、さらには買い出しへ行く手段も限られている。
米や豆類、トウモロコシの粉(ミーリーミール)などの安価な食材を主食にしながら、できる限り野菜や肉類も加える。
例を挙げれば、ミーリーミールをおかゆ状にした“パップ”と呼ばれる料理に、トマトや玉ねぎをベースにしたソースや豆の煮込みをかけて食べるスタイルが一般的だ。
多くの子どもたちは、こうした質素な食事を少量しか口にできない日もある。
現地のNPOやNGOと連携することで、少しでも栄養価の高いメニューを開発しようと試みるが、コストや流通の問題が壁になることが多い。スーパーで購入できる物を増やしたくても、そもそも近所に大きな店舗がない。
結果として、肉や鮮度の高い野菜を手に入れるのは容易ではない。私たちボランティアは、限られた環境の中で最大限の工夫を凝らすしかなかった。
5. アパルトヘイトの“残像”を肌で感じる瞬間
ケープタウン中心部には整備された道路や美しい建築物が並び、賑わうレストランやショップが立ち並んでいる。
それらのエリアには、白人観光客や富裕層が多く集まっていた。
一方でスラム街は、わずかな距離しか離れていないのに全く別世界のようだ。まさに人種や経済力によって街が分断されている様子を、目に見える形で突きつけられた。

写真;Johnny Miller/Rex Shutterstock
ある日、食材調達のために中心部へ向かった際、偶然現地の白人青年と話す機会があった。
彼は決して裕福な家庭ではなく、むしろ貧しい暮らしをしているという。「政府は黒人を優遇している。今の自分の生活が厳しいのは、逆差別のせいだ」と語り、怒りを隠そうとしなかった。
かつてアパルトヘイトで苦しんだ黒人たちが社会的に支援されること自体は理解しているものの、それが一部の白人の貧困層をさらに追い詰めている、という主張だった。
もちろん、この意見に対してはさまざまな見解がある。
しかし、アパルトヘイトの爪痕がいまだ南アフリカ社会の深部に根付いていることを、私は改めて実感した。
一度生じた大きな格差や対立は、政策一つで即座に解消できるわけではない。むしろ、過去の差別構造を是正しようとすると新たな不満が噴出し、対立に拍車がかかるという矛盾を孕んでいるのだ。
6. 罪のない子どもたち
スラム街でのボランティア活動で最も大きな力を感じたのは、やはり子どもたちの存在だった。
彼らには、一切の罪がない。
にもかかわらず、貧困や病気、暴力的な環境の中で育たざるを得ない。
厳しさを思えば、暗い気持ちになることも多かったが、同時に彼らの笑顔や純粋さに救われる瞬間が何度もあった。
「あなたはどこから来たの?」という子どもの問いに「日本から来たよ」と答えると、初めは地理的な遠さにピンとこないようだった。
だが、「日本には桜が咲いて、学校ではこんな授業がある」と話すと、目を輝かせて興味津々に耳を傾けてくる。

ピース
そんな彼らが、将来「パイロットになりたい」「先生になりたい」と夢を語るとき、希望の光が確かに存在しているのだと感じる。
この子どもたちが十分な栄養を摂り、教育を受け、将来まともな仕事を選べる社会環境が整えば、きっとスラム街は変わっていくのではないか。
私にはそう信じたい気持ちがある。どんなに大人たちが対立を深めていても、子どもたちの未来が絶望的であってはならない。

Children's rights.私たちが守るべきものだ.
7. ボランティアを通して問いかける、私たちの未来
今回のボランティアを通じて痛感したのは、自分が“見えていなかった世界”の広さだ。
ニュースやネット上の情報だけでは知り得ない現地のリアルに触れたことで、アパルトヘイトは単に「過去の悲惨な歴史」ではなく、現在進行形で人々を分断し続けているのだと理解できた。
そこで深く感じたのは、「歴史を正しく学ぶこと」の重要性だ。
背景を知らなければ、今起きている問題の原因や当事者の気持ちが理解しにくい。
逆にいえば、歴史を学び直すことで、差別や貧困の構造を変えるヒントが生まれる可能性がある。
ボランティアは一時的な支援にすぎず、“根本的解決”にはほど遠いかもしれない。しかし、一度現地を訪れた私たちが、そのリアルを発信し続けることも一つの貢献だと信じたい。
ホームステイ先での国際色豊かな仲間たちとの語らいを思い返すと、やはり「自分が見聞きしたことを言葉にして共有する」作業こそ、視野を広げる第一歩だと思う。
オランダ人やイタリア人のボランティア、研究者たちが抱く問題意識や疑問は、日本で暮らす私にはなかった視点をたくさん提示してくれた。同時に、私の言葉が彼らの理解を深める手がかりにもなったのかもしれない。
子どもたちの未来を左右するのは、私たち大人の行動や意思決定だ。
支援や啓発活動を続けるにしても、現場に飛び込むにしても、そこには必ず「相手を知る・対話する」ステップがある。
多種多様な人がいる世界だからこそ、異なる視点をぶつけ合い、学び合うことで生まれる可能性を信じたい。

私たち大人の責任について考える
8. 再びケープタウンに想いを馳せて
30時間という長い移動の末に辿り着いたケープタウンは、想像をはるかに超えるほど多面性にあふれていた。
美しい街並みと豊かな自然に魅了される一方で、スラム街の過酷な状況を目の当たりにし、心を揺さぶられる体験をした。
アパルトヘイトが生み落とした課題は根深く、政策と現場の温度差も著しい。
しかし、その中でも孤児たちや住民たちが笑顔を見せ、なんとか希望を繋ごうとしている姿は、私にとって強い励ましになった。
ホームステイでは、水の使い方一つにしても、日本での当たり前とは大きく異なった。
それは南アフリカ特有の水不足事情やインフラ事情と深く結びついている。そしてホストマザーが語ってくれたアパルトヘイト時代の苦難は、私たちが当たり前のように享受している自由や権利が、どんなに尊いものなのかを改めて気づかせてくれた。
歴史を知ることが未来を考えるための出発点になる——そう実感できたのも、彼女との何気ないキッチンでの会話があったからこそだ。
ケープタウンでのボランティアとホームステイを振り返ると、「私たちは未来に何ができるのか」を改めて考えさせられる。
子どもに罪はない。
だからこそ彼らの明日を支えるために、私たち大人はもっとできることがあるはずだ。
孤児たちを取り巻く環境、貧困層の白人と優遇政策の狭間にある矛盾、そして水や電力などのインフラ問題——
いずれも小手先の解決策で片付くほど容易ではない。
しかし、一歩でも二歩でも前に進むために、まずは現状を知り、歴史を振り返り、対話を続けることが不可欠なのだと思う。
帰国してからしばらく経つ今でも、ホームステイ先の部屋でオランダ人やイタリア人の仲間と遅くまで話し合った夜のことや、埃っぽいスラム街の通りとそこで笑う子どもたちの姿が脳裏に浮かぶ。
いつかもう一度あの地を訪れ、みんなが少しでも安心して暮らせる環境になっているかを、自分の目で確かめたい。
そして何より、私はあの時アフリカは危険な国という偏見から、カメラを持って行くことを控えた。今でも後悔している。またカメラを持って、彼らと向き合いたいと思う。
その思いを胸に、私は日々の暮らしや勉学に取り組んでいる。
旅を終えたあとが、本当の意味での始まりだ。
ボランティアやホームステイで得た気づきは、今も私を突き動かし続けている――まさに、ケープタウンが私に与えてくれた大きな贈り物なのだと思う。
最後に、骨折した4ヶ月後に登ったテーブルマウンテンから眺める海。
やればできる、想えば叶う。
絶望の淵から、手術やリハビリを経てこの山頂にきた自分を少しは褒めてあげたいと思う。

