天下を獲る気がない天才、加藤茶
ハナ肇とクレージーキャッツに感化されウエスタンバンドから一転、コメディの道に進んだ《桜井輝夫とザ・ドリフターズ》。桜井輝夫からリーダーの座を引き継いだベーシストの厳格さが仇となり、バンドは1964年に一度空中分解。義理堅いドラマーを除く他のメンバーに一斉に脱退され窮地に陥ったベーシストは、テレビでのレギュラー損失を免れるために半月ほどで再編を試みた。
その結果出来上がった5人組こそ、我々のよく知るザ・ドリフターズ。ベーシストとは後のいかりや長介であり、ドラマーとは後の加藤茶である。
往年のコント映像を観るたびに思い返すことなのだが、加藤茶はドリフ結成当初からの絶対的なエースで、テレビバラエティ創成期において非常に重要なポジションにいながらも、今日まで全くといっていいほど業界評の対象になっていない。
関西勢の東京進出に拍車がかかった90年代半ば頃から、芸人の職業観・実力・功績などについては自他が媒体を通じて恒常的に論じ、やがて視聴者に共有させるようになった(テレビバラエティの総ドキュメンタリー化)。そこではドリフも、MANZAIブームで始まった第2世代の宿敵、あるいは第3~4世代の原体験としてしばしば言及されるが、個人で対象となり得るのは、いかりや長介か志村けんの2人だけ。加藤茶はTBS土曜8時のドリフ~加トケン枠が終焉して以降、昭和の社会現象に同化し実質過小評価されている。
このことは歌手よりもシンガーソングライターのほうが格上とされる風潮と似たものだ。純然たるステージパフォーマーの真価は、作家性やリーダーシップという言語化しやすい資質がないゆえに蔑ろにされがちなのである。
いかりや長介は晩年のエッセイの中で加藤茶について「笑いを誘う間が良かった。ミュージシャンとしての才能、特にリズム感がお笑いでも生きている」と語った。たしかにそうだと思う。福島訛りのしゃべりのリズム、駆けるリズム、コケるリズム、笑うリズム、はたかれるリズム、おどけて二度見するリズムなど、小柄な身体をつかって表す全てが絶妙にハネているのだ。
運動神経とは似て非なる“喜劇のバネ”を彼ほど数多くもっている芸人は日本にほとんどいない。他ではやはり志村けんが真っ先に思い浮かぶが、2人の僅差を探れば、声色を意識的に変えている(本当は低い声質の)志村けんよりも、甲高く丸みもある声質に恵まれた加藤茶のしゃべりのほうが更にハネている気がする。
どだい国内史上最高のコメディアンといった肩書きが相応しく、高らかに意見する性分ならば“お笑い界のドン”といった認識もあっさり広まっていただろう。ところが彼は、人の上に立つことに興味も使命感も抱かなかった。周囲から極めてシャイだと明かされていた志村けんでさえ時代々々の共演者たちとの一派(他所で言うところのファミリーや軍団)を自然と率いていたのに対し、加藤茶は前身のバンドメンバーだった小野ヤスシが亡くなるまで週数回の麻雀付き合いをウン十年続けていたくらいしか目立った交流がなく、どうやらシャイの次元が違うのである。
ぼくはドリフがほんとにほんとに大好きで、メンバー個々人がもっと論理的に称えられてほしい、そのうえでまず加トちゃんには全芸人に敗北感を味あわせるべく(ケンちゃんの生涯のように)テレビでコントを演り続けてほしいと思っていた。いや、今でも思っている。後期高齢者に数えられるようになった今でも、まだまだ“喜劇のバネ”は幾つももっているはずだ。
くしゃみ一発で確実に笑わせる芸人など、後にも先にも彼しかいない。