夢と鰻とオムライス 第19話
「なんで?」
一瞬、頭が混乱する。
てっきり母が迎えに来るものと思い込んでいた。どうしようかとうろたえたが、この暑い中、やってきた父を無視するわけにもいかない。
緊張を紛らわすように、大きく息を吐く。ためらいつつドアを開けると、俺の顔を見て父はなぜか、うん、と頷いた。
「入っていいか」
「うん」
気まずい。実に気まずい。
父と二人きりになるのがあまりに久しぶり過ぎて、前回の記憶がない。そもそも父親と二人きりになったことがあるのかさえ、思い出せなかった。
「飯、食ったか?」
「いや、まだ」
「じゃあ、昼飯にしよう」
父の手には二つの袋が握られていた。何か買ってきてくれたらしい。
部屋に上がり込むと、父はリビングのテーブルを一瞥した。
「あ」
出来たてのオムライスが湯気を上げている。
「これ、なんだ?」
0点のテストみたいに、なんでもないと言って、後ろ手に隠すわけにもいかない。俺はためらいつつ答える。
「オムライス」
「うん、それは見ればわかる」
「ああそう」
「どうしたんだ」
「今、作った」
「瞬太が?」
「うん」
こうちゃんとだったら、ぽんぽん続く会話も、父親相手だと乾いたパンみたいに、もそもそしてしまう。
「そうか」
父がリビングのテーブルに持っていた袋を置いた。一つはペットボトルの緑茶が二本入っており、もう一つは折詰弁当が二つ入っているらしい。
「なんか買ってきてくれたなら、そっちを食べるよ。こんなの捨てたっていいし」
なぜ、父の前では卑屈な物言いをしてしまうのだろう。
どうせ俺のやってることなんか、父ちゃんは大したことないと思っているんだろう。
そんな強い反発心が湧き出して、素直になれない。つい、背中を向けるようなことを言ってしまう。
「このオムライス、お父さんが食うよ」
「え? 俺が作ったんだから、俺が食うよ」
「じゃあ、半分こにしよう」
父の口から《半分こ》なんて言葉が飛び出す奇妙さに、背筋がむずむずする。
「買ってきた飯はどうするの?」
折詰弁当を指差す。
「両方食うんだ。お互い若いんだから、これくらい平気で食えるだろう」
「え? ああ、うん」
本当に食べるつもりらしい。
相手がこうちゃんだったら、年寄りが見栄張るとみっともないよ、なんて突っ込むところだが、父親相手だと調子が出ない。
俺はもう一つ皿を用意して、オムライスをスプーンで半分に割った。そーっと皿を傾けつつ、空いた皿に半分のオムライスを移動させていく。その間に、洗面所で手を洗っていた父がリビングに戻ってきた。
「へぇ、うまくやるもんだな」
きれいに分けられたオムライスを見て感心している。変な褒められ方をされ、今度は調子が狂いそうになる。
「いただきます」
ペットボトルのお茶を開け口を潤すと、父は早速オムライスにスプーンを入れた。
気にしない素振りをしつつ、固唾を呑んで反応を窺う。
黙って咀嚼し、父の喉仏が上下に動いた。そして一言、
「 お母さんのより、旨い」
冗談なのか、本気なのかわからない言い方だった。このままだと、俺の狂った調子は、もう元に戻らないかもしれない。
「それ、うちでは言わないほうがいいよ」
父は一瞬、口角を上げ、
「そうだな」
と答えた。頬を膨らませ、拗ねる母の顔が浮かんだのかもしれない。父はなんだかんだ言っても、母に弱いのだ。
考えてみれば、俺も母とこんなに長い間離れて過ごしたのは、今回が初めてかもしれない。そう思うと、なんだかあのお調子者の母親のことが、急に懐かしくなった。
オムライスを食べ終えると、父が折詰弁当をむんずと掴んで蓋を開けた。幕の内弁当でも出てくるのかと思いきや、その中には香ばしい焼き色をした大きな鰻が、タレをまとって横たわっていた。
「あれ? 鰻、嫌いじゃなかったっけ」
さすがに声が出た。
土用の丑の日に鰻を食べたことがないはずの父が、目の前の鰻に山椒をかけ始めている。割り箸を割り、今まさに箸を付けようとしたそのとき、
「……鰻、昔は好きだったんだ」
父がこぼすように言った。
一瞬、あたったのかなと思ったが、牡蠣や鯖じゃあるまいし、鰻にあたるなんて話はあまり聞いたことがない。
「いただきます」
今シーズン二度目の鰻を頬張りながら、そんなことを考えていると、父が静かに話し始めた。
「 鰻が食えなくなったのは、中学生の頃だ。それまでは月に一度、死んだおじいちゃんと一緒に、二人だけで鰻を食べに行ってた。おじいちゃんは後継ぎの俺を、何かと特別扱いしてさ。鰻は旨かったけど、後ろめたかったよ。鰻は光一の大好物だったからな。でもあいつは、土用の丑の日以外は食わせてもらえなかった」
眉間に皺が寄った。死んだ人を悪く言いたくないが、やはり俺は祖父のことが苦手だ。
「鰻屋の前で、一度だけ光一に出くわしたことがあった。おじいちゃんは平然としていたが、俺はしまった 、と思った。そんな顔見て一瞬で状況を察したんだろうな。光一のやつ、唇を噛んで走っていったよ。追いかけようとしたら、おじいちゃんに止められた。それ以来、鰻を食っても旨いと思ったことがない。あのときの光一の顔が浮かんでくると、味がしなくなるんだ」
俺は鰻を口に運びながら、走り去っていったこうちゃんを思い、弟を追いかけられなかった父を思った。
「それまでは、俺たち兄弟もうまくやってたんだよ。いや、光一がうまくやってくれてたんだな。俺が親父から贔屓されているのをわかっていても、気にしないふりをしてくれてた。でも、あの日以来、光一は俺に対してどこかよそよそしくなったんだ。自分の好物をこっそり食ってたって知って、悔しかったのかもしれないな」
「 違うよ」
そんな、食べ物の恨みは恐ろしい、みたいな単純なことじゃない。俺は、父の顔を睨め上げた。
「悔しいんじゃない。悲しかったんだ」
悲しいっていう感情は不思議なものだ。それを感じていると、自分が孤島に取り残されたような気がして恐ろしくなってくる。だから悲しみという感情はすぐさま、他の感情に塗り替えられてしまうのだ。
忘れられた悲しみは、いつまでも心の中に沈んだままだ。
人の悲しみがなかなか癒えないのは、そうやって、悲しかった事実に、目を背けるからかもしれない。
すると、父が俺の目をじっと見た。
「瞬太は、勉強はできない」
「は?」
改めて言わないでほしい。
「でも、瞬太は鋭い。人の気持ちを察して、わかろうとする。アンテナみたいに敏感なんだ。それは勉強して備わるもんじゃない。たぶん、慶太にしてみたら、お前のそういうところが怖いだろうな」
「……」
「そして、俺もお前のそういうところが少しだけ怖い。敵わないって思うよ」
なんて返していいかわからなくなる。
父は、ペットボトルのお茶を一口飲むと、
「なぁ、おじいちゃんの話をしていいか?」
と訊いてきた。
祖父の冷たい目が頭の中でちらつく。もう、あの人のことを思い出したくないと思いながらも、俺はうん、と頷いていた。
第20話につづく