夢と鰻とオムライス 第18話
朝、こうちゃんはバタバタと出かける準備をしながら、
「おお、そうそう。瞬太、これ」
カードキーを渡してきた。
そうだ、こうちゃんが留守の間に帰るのだから、戸締まりがいる。
「後で郵送したらいいかな?」
そう訊いたら、
「持ってていいよ」
と、こうちゃんは言った。
「また、父ちゃんと兄ちゃんに邪険にされたら、家に来い。恵梨子も、瞬太だったら大歓迎だって」
「ホント?」
ありがたい。他に居場所がある。そう思えるだけでどれだけ心強いか。
「ありがとう、こうちゃん」
「うん」
こうちゃんはそそくさと靴を履く。電車の時間を気にしているようだ。
「じゃあ、俺、出かけるからな、瞬太、気をつけて帰るんだぞ。あ、あとさ……」
「ん?」
「昨日、掃除、ありがとな。あちこち、きれいになってて驚いたよ」
「まぁ、長居させてもらったから、一応ね」
こうちゃんは、ふっと息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「本当に……。兄貴の息子にしとくの、もったいないよ」
「なんだよ、それ」
「じゃあ、いってきます」
くすぐったい気持ちで、「いってらっしゃい」と声をかけると、玄関ドアがバタンと閉まった。慌ただしかった部屋の中は一気に静かになる。俺は知らない場所に、一人取り残された気分になった。
だが、そんなセンチメンタルに浸っている暇はない。
昨日の夜、布団に寝転がっていると、母から連絡が来た。
先程、こうちゃんから「明日、息子さんをお返しします」と連絡がありました。明日はうちも休診日だから、お昼過ぎに車で迎えに行くね。あと、家庭内改革完了しました! 安心して帰っておいでー。
その文面を見て思わず苦笑する。
どうやら俺は貸し出されていたらしい。どうであれ、安心して帰れるのなら、ありがたいことだ。
母には手短に一言、
了解。
とだけ返信した。
つまり、今日の昼過ぎには迎えが来る。
それまでに、米を炊き、買い出しをし、チキンライスを作らなければならない。いろいろやることがある。とにかく、急がなければ。
米を炊く準備をしてから、俺は近くのスーパーへ買い出しに行き、早々に帰宅した。
鶏もも肉、バター、にんじん、ピーマン、玉ねぎ、きのこ、卵。
後はこうちゃんに頼まれた、納豆三パックを冷蔵庫に入れる。
きちんと手を洗ったら、まずは下ごしらえだ。
鶏もも肉の筋や脂を取り除き、塩胡椒をして、キッチンペーパーに包む。それをラップでくるみ、冷蔵庫に入れる。鶏肉の匂いを消すための大事なひと手間だ。
鶏肉の水分が上がるまで大体二十分ほど。その間に、野菜の下ごしらえを始める。
順序立てて料理を作っていると、なんだか不思議な気分になってくる。こうして目の前のことに集中しているときは、余計なことを考える隙が無い。胸に潜む悩み事に囚われることなく、凪のような気持ちでいられるのだ。
だが、不意に時計を見て、
昼まで後一時間しかない!
と思った途端、心がざわりと波立った。
急いで洗い物をしようとレバーを上げたら、水が撥ねて目に入った。それを拭おうと目をこすったとき、さっきまでその手で玉ねぎを触っていたのを思い出した。
「うー、しみるー!」
焦るとろくなことがない。玉ねぎの刺激は涙となって、視界をぼやかす。
洗面所に行き、目を洗う。自分の濡れた顔を鏡で見たとき、ふと思った。
もしかしたら、兄もこんな感じなのかもしれない。
受験まで、半年もない。
時間に追われ始めると、気持ちはどんどん焦ってくる。追いかけてくる時間ってやつは、得体の知れない化け物みたいに恐ろしいものだ。
化け物から逃げ惑う最中、横で呑気にチャーハンを作ろうとしている弟を見たら、そりゃあ、いらいらもしただろう。三連プリンを食い尽くし、ストレスを発散したくなる気持ちもわからなくもない。
とはいえ、暴言を吐いて五百円玉を投げつけてきたことを、簡単に許せるはずがない。それに向こうが謝らなければ、許すことすらできないし、こっちから折れるなんて、まっぴらごめんだ。
でも……兄との不仲はいつまで続くのだろう。
喧嘩をしたとき、どうやって仲直りしていたのか、小さい頃のことを思い出してみる。褪せ始めた過去の中に浮かんでくるのは、喧嘩した後に食べた、プリンの味ばかりだ。
すると突然、キッチンからにぎやかなメロディーが鳴り響くのが聞こえた。
物思いに耽っていた俺の肩が、びくっと持ち上がる。米が炊けたようだ。キッチンに戻り、炊飯器の蓋を開け、やさしく天地をひっくり返す。もわっと、炊きたての米の香りが鼻をくすぐった。
このまま納豆をかけて食ったほうが旨そうな気がしてくるくらい、少し硬めの、いい炊き具合だ。この米にケチャップをまとわせるのは気が引けるが、今日はオムライスと決まっている。
「よし!」
俺は気合いを入れるように、パチンと手を打った。
こうちゃんの分のオムレツは作らないが、俺の分はきちんと作る。美味しくできているか、自分の舌でしっかり確かめて帰りたい。
スマホで下調べしたところによると、ご飯を炒める前にケチャップと具材を炒め合わせておけば、水分が飛び、ライスがべちゃっとならないらしい。
その通りにやってみると、確かに、ケチャップを炒めるうちに濃い色になり、水分が飛んだのが見てとれる。そこにご飯を投入し、味の付いた具と炒め合わせた。火力も弱いので、プロみたいに鍋は振れない。その分、米を潰さないように丁寧に木べらを扱う。ケチャップの香りと一緒に漂う、鶏肉の香ばしさが食欲をそそる。
「お、結構いいじゃん!」
最初とは比べものにならないくらい旨そうだ。こうちゃん用と自分用、二つに分けて皿に盛る。こうちゃんの分を冷ましている間に、自分用のチキンライスのに載せるオムレツを焼いた。プロみたいに包めないので、チキンライスの上に焼いた玉子を載せるだけだ。
ゆくゆくは包めるようになりたいな、と思いながら、出来たてのオムライスをテーブルに置いたとき、タイミング悪く、インターホンが鳴った。
時計を見たら、正午ぴったりだった。
まぁ、せっかくだから、母にオムライスの味見をしてもらうのもいいかもしれない。そう思いながらモニターを見ると、なんと、そこには父の姿が映っていた。
第19話につづく