トウキョー御伽噺~otogibanashi
「東京は夜の七時」という曲がある。
ピチカート・ファイヴの代表曲になるのだろう。この「東京は夜の七時」がリリースされたのは1993年の12月。当時私は14歳。いわゆる中二である。中二病などと揶揄させるが、この頃に感じた印象や思いは大人になっても影響を及ぼすほど根深いものがある。
中二病(厨二病)とは、思春期の格好つけたい年頃の少年少女にありがちな、空想や自己愛や全能感が生み出す、奇矯で珍妙な言動や嗜好のこと。 揶揄または自虐の意味を込めて用いられるスラング。(Weblio辞書より)
そんな中二の私がピチカート・ファイヴの「東京は夜の七時」を聴いたとき、一瞬「ん?」となった。怖いもの知らずで生意気ざかり、自分の感情に訴えない芸術や音楽には厳しい目を向けてしまう思春期の私は、この曲に対してこんな感想を抱いた。
「何を伝えたいの?」
ピチカート・ファイヴファンの皆さんの「このクソガキ!」という歯ぎしり音が聞こえてくるようである。当時、私はこの曲にありきたりなイメージの東京を凝縮させたような雰囲気を感じていた。表参道、恵比寿、赤坂、六本木、渋谷、そんな場所で浮つく大人たちに、少女であった私の目は冷ややかだった。
私は東京生まれ東京育ちで、当時都心の中学に通っていた。こう書くと嫌味に思われるだろうが、私にとって東京の夜の七時は日常だ。東京というものが、極上の美人のように扱われ、ちやほやされることへの違和感があった。私の知る日常が無理矢理化粧をさせられ、おしゃれを強要され、自分の育った町や知っている場所が、消費されていくような悲しみを感じた。東京出身者は郷土愛がないと言われがちだが、そんなことはない。クソガキなりに、自分の生まれ育った町には思い入れがあった。
ピチカート・ファイヴのこの曲は、聴く人をワクワクさせる雰囲気がある。そして何よりも気が遠くなるほどおしゃれだ。でも私はその素晴らしさを、可愛いアクセサリーをつけるように、素敵なマニキュアを指に塗るように、素直に楽しむことができなかった。
そもそも私は若い頃から今まで、アクセサリーにもマニキュアにも興味がない。ただ東京で生まれ育っただけの人間だ。この雰囲気を楽しむ素質のない生意気な小娘が、ただ「何を伝えたいの?」と思っていたにすぎない。もしかしたら、中学生の私にはこの曲は早すぎたのかもしれない。
それから28年が経ち、この曲の主人公よりも年上になった私が、今改めて「東京は夜の七時」を聴いて思ったことがある。
もしやこの歌詞に綴られている東京は、私が暮らしていた実在の東京ではないのではないか。
そう思い歌詞を見ると、タイトルは「東京は夜の7時」だが、歌詞の中では「トーキョーは夜の7時」と書かれている。この表記の違いを見て私は、この曲は東京をディズニーランドのような夢の世界として表現しているのではないか。そう思った。
仕事でディズニーランドに通勤している人と、ワクワクしながら遊びにやってきた人とでは、同じ場所にあるディズニーランドでも見え方が違う。よくよく考えてみれば、恋人に早く会いたいとウキウキしている女性の見ている東京と、私の見ていた東京とは違っていて当然だ。
「東京は夜の七時」は、いわば大人たちのエレクトリカル・パレードだったのではないだろうか。東京の夜の街に憧れた大人たちが、子供のようにワクワクしている夢を描いた、おとぎばなしだったのだ。そんな夢物語の上では中二女子の「何を伝えたいの?」という疑問など、ただの言いがかりでしかない。シンデレラに「ガラスの靴なんて履いたら割れるよ」と興ざめなことを言うようなものである。
一人の女性がうたた寝しながら見た夢のおとぎばなし。
そう思うだけで主人公が恋人に会いに行くために走らせていたタクシーが、シンデレラのかぼちゃの馬車に思えてくるからフシギだ。
私が中二のときは、スマホもパソコンもなく、音楽を歌詞も含めてきちんと聴くにはCDの購入は必須だった。テレビで放送されることがあっても編集される可能性がある。現代のようにCDを買わなくても曲や歌詞を確認できる時代ではなかった。パッと聴きの罪が、中二の私に「何を伝えたいの?」という感情を抱かせたのだろう。
28年の時を経て、この曲への誤解が魔法のように解けていった。
もし東京が、おしゃれを止めて素顔に戻るときが来たとしても、「東京は夜の七時」が聴こえてきた瞬間、赤い口紅を引くように、東京はきらびやかに色づくのだろう。東京を舞台にした御伽噺は、夢をまとってよみがえり、いつまでも響き続けるのだ。
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