「一泊二日」 第一話
◇
頭にきた。もうあんな男とは別れてやる。
電話を切ってから、一時間近く経つのに、この腹立たしさが収まる気配はない。気がつけば、ベッドに座ったまま、膝の上で、ずっとこぶしを握りしめていた。開いてみると、手のひらにはじっとりと汗がにじんでいる。私はティッシュペーパーを一枚引き抜き、手を拭く。それをグシャグシャに丸め、ゴミ箱めがけて投げ入れようとしたが、角に当たってポロリと落ちてしまった。何をやってもうまくいかない。
「真希ちゃん。来週の旅行、ダメになっちゃった」
「ダメになったってどういうこと?」
それを訊いたところで、きっと、どうにもならない。そんなことはわかっていたけれど、私は訊かずにはいられなかった。
「新幹線のチケットをさ、財布と一緒にうっかりテーブルに置きっぱなしにしちゃったんだよ。風呂から上がって、奥さんに何これ? って訊かれてさ、俺思わず、サプライズ旅行だよって、言っちゃったんだ」
「はぁ?!」
信じられない。
「だからさ、とりあえず今回の旅行は、奥さんといくしかないかなって……」
私は頭を抱えた。
旅行がキャンセルになるならまだ我慢もできる。でも、私といく予定だった旅行に、奥さんを連れていくなんてあんまりだ。
ふざけるな。
罵る言葉が口をついて出そうになる。洋平はそんな空気を察したのか、
「ごめん、真希ちゃん、本当にごめん!」
慌ただしく電話を切られてしまった。スマホを耳に当てたまま、呆然とした時間が過ぎる。
「何で、大事なチケットを置きっぱなしにすんのよ!」
我に返ったとき、私の胸は燃えるような怒りでいっぱいになった。気づけば私は、目の前にいない洋平に悪態をつきながら、傍にあったクッションを、思い切り壁に投げつけていた。
そもそも、こんな恋愛に足を突っ込む気など、さらさらなかったのだ。それなのに、気がついてみたら、もう三年も足を取られたままでいる。
思えば、いこうかどうしようか迷っていた飲み会に参加してしまったのが、運の尽きだった。
その飲み会は、私が大学時代所属していたサークル仲間の集まりで、そこにOBの洋平がやってきたのだ。五つ年上の洋平とは、在学中、一度も会ったことはない。飲み会に参加していた先輩と付き合いがあって、それで顔を出したようだった。
「どのへんに勤めてるの?」
洋平からそう訊かれたのが、最初の会話だった。
話すうちに、二人の職場が近いことがわかり、飲み会をきっかけに、仕事終わりに会うようになった。最初は恋愛感情など全くなく、同僚には言えないような、仕事の愚痴を聞いてもらうだけだった。だから、洋平が既婚者かどうかなんて気にならなかったし、彼のほうも、私に家庭の話などしてこなかった。
洋平は、とにかくやさしかった。私が落ち込んでいると、すぐにそれを察してくれたし、泣きたいときは思う存分泣かせてくれた。涙がひくと、あれこれ冗談を言って、笑わせてもくれた。社会人になりたてで、悩みごとも多く、隙だらけだった私は、まるでエネルギーを充電するように、洋平と会い続けた。
洋平が既婚だと知ったのは、初めて深い関係になった夜のことだ。その日、洋平は初めて、飲んだ後に私のアパートに寄った。部屋の鍵を差し込んだとき、少しだけ、胸の内にもやもやとした不安が広がったのを憶えている。
「泊まっていけば?」
服を着る彼の背中に向かって言ってみた。
「……家に奥さんがいるから」
泣きそうな顔で白状した洋平を、私は責めることができなかった。その頃には、私はすっかり、洋平にのめり込んでしまっていたのだ。
きっと、あの飲み会のときに、洋平が既婚だと知っていれば、こんなことにはならなかっただろう。確かめるタイミングはいくらでもあった。でも、私はおめでたいことに、結婚指輪をしていないというだけで、洋平が独身だと思い込もうとしていたのだ。たった一言だけ「独身?」と訊けばよかっただけなのに、私は訊かなかった。囚われのない左手の薬指を見つめることで、彼の隣に誰かがいるかもしれないという不安を、かき消していたのだ。引き返せなくなってから知ったところで、心がついていかない。既婚を隠していた洋平と同じくらい、私もズルい人間だった。
それから三年の間、私は自分の心の浮き沈みを、仕事や洋平のせいにしながら暮らしてきた。沈んだ心を、悩みの元凶である彼に慰めてもらうという悪循環。そんなサイクルの中に私は居続けたのだ。今回の旅行も、鬱っぽくなっている私を見て、
「気晴らしに旨いもんでも食いにいこうか!」
そう言って、洋平が新幹線のチケットやホテルを予約してくれたのだ。
三年付き合って、旅行にいくのは今回が初めてだった。洋平は、よく言えば慎重、悪く言えば小心者で、私に会うときも、奥さんにバレないように細心の注意を払う人だった。デートも、飲みにいくか、私のアパートに来るくらいで、これまで恋人らしいデートなどしたことがない。
そういう我慢を重ねてきた分、私は今回の旅行が、楽しみで楽しみで仕方なかった。指折り数えながら、その日を待つなんて、子供のとき、仲のいい友達を招いて開いた、お誕生日会以来だ。
旅先で着るワンピースも買ったし、一泊二日の旅行なのに、大げさにキャリーバッグまで買ってしまった。旅行用のコスメ、旅行用のポーチも買ったのに、それもこれも、全部、無駄になってしまった。
私の心の糸が、ぷつりと切れた。
洋平を好きだという気持ちだけで、どうにかここまでやってきた。好き、という気持ちと、好き、だけではどうにもならない思いが、糸のように引き合い、張り詰めて、そして弾けるように切れた。
楽しみにしていた旅行を、奥さんに奪い取られた。自分のものになるはずだった時間を、そっくりそのまま、彼の妻に取られてしまった。実際は、彼を奪い取っているのは自分のほうなのに、身勝手な怒りが沸いてきて止まらない。
もうこうなったら、どうにでもなれだ。
全てが無駄になったついでに、思い切って、この恋を終わらせてしまおう。彼だって、奥さんと別れる気なんてないのだから、これが潮時なんだ。三年も日陰にいたのだ。そろそろ私も日向に出たい。
一度、そう思い始めると、その気持ちがどんどん真実味を帯びてくる。この三年間を、どう締めくくろう。どうやって、この恋を終わらせようか。
旅行にいけなかった落胆と引き換えに、私はそれを頭に巡らせることで、心のバランスを保っていた。朝起きて、ごみを出して、出勤して、退勤して、帰宅して、何をしていても、私は頭の片隅で、どうやって別れてやろう。そればかり考えていた。
◇
私は新幹線のチケットを取った。行き先は仙台だ。
自分が乗るはずだった、同じ時間、同じ車両のすぐ後ろの指定席。そして、泊まる予定だったホテルを予約した。
同じ空間に妻と愛人がいる。
それを知ったとき、洋平はどんな顔をするだろう。それを想像するだけで、おかしくて、悲しくて、たまらなかった。
前日の夜、新品のキャリーバッグに荷物を詰めていると、今ならまだ間に合う。引き返せる。そんな声が胸の内から聞こえ、私は弱気になった。洋平との関係が奥さんに知られたら、私にだってリスクがある。仕事をやめなければならないほど追いつめられるかもしれないし、奥さんに慰謝料を請求される可能性だってある。こんなことをして、ただでは済まないかもしれない。生活の基盤がグラグラ崩れて後悔する自分の姿が浮かび、胸が苦しくなった。彼の連絡先を消去して、自分から身を引いたほうがいいに決まっている。でも、そんな静かな終わらせかたをしたら、私はまた、洋平に会いたくなってしまうかもしれない。傷つくことでしか、私はこの取られたままの足を、引き抜くことができないと思った。
自分がしようとしていることが、どんな未来を連れてくるのかなんて、今、考えてもどうにもならない。
私は確固たる気持ちで、そう思い直し、最後の荷物をキャリーバッグに詰めた。
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この作品は、創作大賞2023応募作品です。
以下、二話目以降のリンクです。
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