夢と鰻とオムライス 第17話
◇
目を開け、ゆっくりと焦点を定める。
薄暗い中に、運転席と助手席の背もたれが見えた。耳の奥に「ありがとう」という声が、うっすら残っている。誰の声だろうと思って起き上がると、運転席から、こうちゃんの締まりのない顔がこっちを覗き込んだ。
「おーい、着いたぞ」
外に目をやると、いつもの駐車場だった。疲れていたのか、随分深く眠ってしまったようだ。
「恵梨子さんは?」
「もうとっくに家まで送ったよ。起こしたらかわいそうだから、よろしく伝えてだとさ」
喜びを隠し切れない様子で、こうちゃんは恵梨子さんの話をする。
部屋に戻っても、ずっと口許が緩んでいたので、一応訊いてみることにした。
「俺が寝てる間に何かあったの?」
「な、なんでもないよ」
なんだ、話してくれないのか、とがっかりしたが、まずは一人で喜びを噛み締めたいのかもしれない。まぁ、そのうち話してくれるだろう。
「あ、そうだ。こうちゃん、買ったぶどう今日食べるんでしょ? 冷蔵庫入れとこうよ」
俺が言うと、こうちゃんが顔の前で手を合わせた。
「ごめん!」
「え?」
「実は、ぶどう、恵梨子にあげちゃったんだ」
「えー!」
恵梨子さんが買ったパンを分けてくれたとき、「じゃあ、これ持っていけよ」と、物々交換のようにぶどうを渡してしまったらしい。
「ごめん、瞬太!」
たぶん、いい恰好をしたかったのだろう。そう思うと、目の前にいる四十を過ぎたおっさんが、なんだか可愛く思えてくる。
「恵梨子さんが喜んでくれたなら、別にいいよ」
俺が笑って言うと、
「ありがとう、瞬太」
こうちゃんはまた、顔の前で手を合わせた。
◇
翌日、急に仕事が入ったとかで、こうちゃんはなかなか部屋から出てこなかった。恵梨子さんからもらった食パンでピザトーストを作り、コーヒーと一緒に部屋に持って行くと、
「おう、助かるわー」
こうちゃんはそれを、ほくほく顔で受け取った。
俺も一人静かに、リビングでピザトーストをほおばる。
「うまっ!」
白くてふかふかで旨いパンだった。
生地が滑らかにほどけて、やわらかいのに、いつまでも嚙んでいたくなる。
兄がいつも食べているパンは、噛み応えもあって、天然酵母の香り豊かな真面目なパンだ。それに引き換えこっちのパンは、たっぷりと膨らんでいて、もちもちふわふわで食べやすい。
比べても、簡単に優劣はつけられない。味だけの比較なら、どっちのパンも旨いのだ。
パンだって、いろいろだ。いろいろだけど、どっちのパンも旨い。それがなんだか嬉しくて、口許に自然と笑みがこぼれてきた。
昼食を終えると、なんとなく、キッチンやリビングを片付けている自分がいた。頭よりも体のほうが、そろそろ帰らないとなぁ、と思っているらしい。
ひと月近くお世話になった部屋に感謝しながら、埃を払ったり、窓を拭いたりしていく。奥で仕事をしているこうちゃんの邪魔になったらいけないので、フローリングワイパーや、コロコロを使って掃除をした。掃除機を使わなくても、案外きれいになるものだ。
洗面台や風呂などの水場を掃除していると、あっという間に夕飯時になってしまった。慌ててシャワーを浴びる。急いで髪を乾かし、手早く何か作ろうと思っていると、
「あー、疲れた疲れた。もうこんな時間かー」
こうちゃんがリビングにやってきた。
「うわー、飯、どうしよう。何かさっぱりしたものがいいよなぁ。あ、そうだ、素麺もらったんだった。瞬太、素麺にしないか?」
矢継ぎ早にそう言って、こうちゃんは素麺の木箱を見せる。箱には《三輪素麺》と書かれてあった。
「……三輪明神の御利益」
兄に五百円玉を投げつけられた日、母がそう言って素麺を茹でようとしていたのを思い出す。
「ん?」
「いや、こっちの話。その素麺、俺ん家にもあったよ」
「あ、それ、たぶん同じ人からだ。中学の同級生に、奈良に嫁いだ子がいてさ、同じクラスだった瞬太の母ちゃんと俺とで、引っ越しの手伝いに行ったんだ。もう二十年くらい前の話。それで毎年夏になると、三輪素麺を送ってくれるんだ」
「へえ」
あのとき、家を飛び出して食べそびれてしまった素麺が、まわりまわって、目の前にやってきたみたいだ。
「素麺は俺が茹でるよ。こうちゃん、ずっと部屋にこもりきりだったから疲れただろう?」
俺が言うと、
「じゃあ頼むよ。いやー、誰かと助け合って暮らすって本当に最高だな」
こうちゃんは、首を回しながら、拳で自分の肩を叩いていた。本当にお疲れのようだ。
大鍋を取り出し、水を張り、火をかける。
素麺だけでは物足りないので、冷蔵庫の野菜室の覗きながら、俺は適当におかずを作り始めた。
冷蔵庫にあったトマトをスライスしてキムチの素をかける。
茄子を切って電子レンジで蒸して、水気を絞り、こっちにはいりごまとポン酢とごま油をかけた。
うちでは素麺のとき、ぽろぽろに炒った卵を添えるので、それも作る。母はいつも、「本当は錦糸卵がいいんだけどね」なんて言い訳をしながら食卓に並べている。でも俺は、このぽろぽろした見た目が好きで、毎回素麺のときに添えてくれるのを楽しみにしている。
あとは緑が足りないので、ピーマンをベーコンと一緒に炒めていく。最後に、薬味のネギを切って小皿によそった。
そうこうしているうちに湯が沸き、ようやく素麺の出番だ。
パスタを茹でるみたいに、パッと花を咲かせるように素麺を散らすと、
「瞬太、何だかキッチンに立つ姿が堂に入ってきたな」
こうちゃんが頷きながら感心していた。
からかったのかもしれないが、それでもやはり、誇らしい気持ちになった。ここで暮らすうちに、なんだか料理に目覚めた気がする。そして、そんな自分がちっとも嫌じゃなかった。
できあがったおかずを食卓に並べ、「いただきます」と手を合わせる。
「いやぁ、お見事お見事。瞬太、ひょっとしたら料理の才能あるんじゃないか?」
「そんな大袈裟な……野菜切って、チンして、タレかけただけだよ」
謙遜したが、褒められるのはやはり気分がいいものだ。
「俺も瞬太を見習って、もう少し作れるようにならないとなぁ。……今度こそは俺、ちゃんと助け合って暮らすんだ」
食べながら、こうちゃんは言った。
「助け合うって?」
「実は、恵梨子とやり直すことにしたんだ。またこの家で暮らすことになると思う」
昨夜、照れて口にしなかった話を、こうちゃんはようやく白状した。
「やったじゃん!」
昨日こっそり盗み聞きしてたよ、とはさすがに言わない。
「恵梨子、今一人暮らししてるらしいんだけど、ちょうど今年の秋にアパートの更新があるんだって。一緒に暮らすまでは、もう少し時間かけたほうがいいかなって思ったんだけどさ、更新料払うのもったいないって話になって、思い切って、十月に一緒に暮らせるように準備することになったんだ」
こうちゃんはそう言って、満足そうに素麺をずるっと啜った。
「よかったね」と言うと、「瞬太のおかげだ」と感謝された。悪い気はしない。いや、正直言えば、すごく嬉しかった。
「実は、今、瞬太が使ってるあの部屋さ、前に恵梨子が使ってた部屋なんだ。あそこだけは自分の荷物で汚したくなくって、恵梨子が出て行ったときのままにしてた」
「そうなんだ」
「仕事が一区切り着いて、休めるのは嬉しかったんだけど、暇になると、つい恵梨子のこと思い出してつらかった。そんなとき、瞬太を預かってくれって頼まれたんだ。本当に良いタイミングだったんだよ。あのときは、もう恵梨子のことは忘れようって思ってたのに、まさかひと月も経たないうちに、こんなことになるなんてなぁ」
こうちゃんの家にきたとき、どうしてあの部屋だけがきれいだったのか不思議だった。その理由がわかり、すっきりした気持ちで、俺も素麺を啜った。
「誰だっけ? 覆水盆に返らず、とか言ってたの?」
カップ焼きそばを食べながら、語り合ったのが一昨日のことだなんて、なんだか信じられない。
こうちゃんは口ごもる。
「いやいや、まぁ、あのときはさ……。おっ、キムチのタレとトマトって合うんだなぁ。旨い」
あ、ごまかした。
こうちゃんがトマトを口いっぱいに頬張るのを眺めながら、俺はにやりと笑う。
「やっと、元の鞘に納まったね」
こうちゃんの新生活は動き出している。
俺だって、いつまもでもここにいるわけにはいかない。あと一週間もすれば夏休みも終わる。きちんと部屋の掃除もしたし、もう思い残すことはない。そろそろお暇のときだ。
「俺、明日にでも家に帰るよ。そろそろ夏休みも終わっちゃうし。新学期の準備もあるしさ」
俺が言うと、こうちゃんは、あちゃーという顔をした。
「俺、明日、出かけるんだ」
「恵梨子さんとデート?」
「違うよ。仕事の打ち合わせ。今日はそれでずっと部屋に詰めてたんだ。明後日なら送っていけるんだけどなぁ」
「大丈夫。一人で帰れるよ。 あ、でも」
「ん?」
まだ、やり残したことがあった。
「オムライスリベンジがまだだった」
こうちゃんが、「ああ」と思い出したように声を上げる。きっと恵梨子さんとのことがあって、すっかり忘れていたのだろう。
「じゃあさ、チキンライスだけでも作って、ラップして冷蔵庫に入れておいてくれないか。一度出かけると、面倒になって、昼、夜と外食にしちゃうんだよ。だから作っておいてもらえると助かるんだ。帰ってから自分でオムレツ焼いて乗せるからさ。どう?」
できれば出来たてを食べてほしいが、こうちゃんの助けになるなら、そうしよう。
「わかった。じゃあ、午前中に食材買いに行くからさ、何か他に買っておいてほしいものがあったら言ってよ」
「おう」
こうちゃんの顔を見ているうちに、しみじみとした気持ちが湧き上がってきた。もう帰るんだな、と思うと寂しい。こうちゃんのおかげで、俺もいい気晴らしになった。本当に楽しい夏だった。
お世話になりました。
心の中でつぶやく。
すると、それが聞こえたかのように、こうちゃんの手が伸びてきて、俺の頭をくしゃくしゃに撫で回した。
第18話につづく