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夢と鰻とオムライス 第2話

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 昔から、兄のほうが出来は良かった。
 俺はといえば、運動も勉強も平均の下あたり。興味の持てないことには、意欲が湧かない性格なのだ。
 それを「甘えだ」と言う父に、俺は「自分に素直なだけだ」と言い返す。そんな減らず口を叩くから、俺は父から好かれない。
 以前、テストで赤点をとったとき、
「瞬太……おまえ本当に俺の子か?」
 父がため息交じりに漏らしたことがあった。すると隣にいた母が、
「あなた! まさか私が浮気したとでも言いたいの?」
 聞き捨てならんといった様子で父に食ってかかった。
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、どういうわけよ!」
「いやいや、深い意味はないよ」
「へー、深い意味もなく、そういうこと言っちゃうんだ?」
「いや、だってさ……」
「だってもへちまもないっ!!」
 母の剣幕に、父親の肩がびくっと持ち上がった。

「失礼しちゃうわね! そこまでおっしゃるなら、どうぞどうぞ。DNA検査でもなんでもしてもらおうじゃないの! さぁ!」
 母がテーブルに手を突くと、バン! と大きな音がした。
 顔を寄せ、父を睨め上げる。
 その姿はまるで、お白洲で桜吹雪を見せつける、遠山の金さんさながらだった。
 父はごめんごめんと手を合わせ、母の機嫌を取りはじめる。ふくれっ面をした母は、しらないしらないと、追いすがる父の手を振り払った。

 おかげで赤点の件はうやむやになったが、胸の奥にざらりとしたものが残った。
   お前は俺の血筋じゃないねぇ。
 そう言っていた祖父の言葉を思い出す。子供の耳に、《血筋》という言葉が、やけに重たく響いた。
 祖父は俺たち兄弟に会うと、朝晩の挨拶のように、テストの点数を訊いてきた。祖父は兄の満点に目を細めて喜び、俺の出来には眉を顰めた。
   本当に俺の子か?
 言葉は違えど、父も祖父と同じことを言っている。

 
 嫌な記憶を踏みつけるように、アスファルトの上を歩いていく。
 炎昼の日差しは容赦ない。うつむけば首の後ろをじりじり焼き、上を向けば、さっき兄にやられた眉間が熱で疼きそうだ。
 もう、これ以上は耐えられそうもない。
 道沿いのスーパーマーケットにふらりと入る。冷えた空気が体を包み、毛穴が縮んで汗が引く。うだる暑さから解放され、ほっと肩が落ちた。

 俺はスーパーが結構好きだ。
 特に今日みたいな物憂い日は、店内のにぎやかな音楽が、波立つ思いをなだめてくれる。キウイの効能を謳った歌や、ハムやソーセージのテーマソングが聞こえてきたりと、売り場によって流される曲が違うのも面白い。
「お母さん、プリン買ってー!」
 そんな音楽を貫くように、大きな声が聞こえてきた。
 目をやると、兄弟らしき男の子二人が、スイーツのコーナーにあるプリンを指差している。昔からある三個パックの、三連プリンと呼ばれているやつだ。

 俺たち兄弟も、あのプリンが大好きだった。容器の底についた突起をプチンと折ると、プリンがぷるんと皿の上へ移動する。食べるのと同じくらい、あれをやるのが楽しみだった。
 今でも、あの頃が懐かしいのか、未だに母は三連プリンを買ってくる。
 もう子供じゃないと思いつつも、あれば食いたくなるのが人情だ。でも、食べようと冷蔵庫を覗くと、もうそこにプリンはない。
「あれ、プリンは?」
 自分が食べたわけでもないだろうに、母はばつの悪そうな顔をする。

 三連プリンは母、兄、俺の三人で分けるのが、小さい頃からの決まりだった。父は甘いものを食べない。だから、自分が先にプリンを食べたら、残りは母と兄のものと、きっちり取り分が決まっていたのだ。
 だが、長いこと保たれていたそのルールは、気づけば立ち消えになっていた。

「勉強してると、糖分が欲しくなるみたいでね……」
 母はそう言うが、俺はこれが兄の小さな抵抗だと思っている。きっと母もそれに気づいていて、何も言わないのだ。
 皆に食われる前に全部横取りし、部屋で一人、三つのプリンを食う兄を想像する。みみっちい、子供みたいな抵抗だ。バカバカしくて、情けない。
 兄も、そんなことくらいわかっているのだろう。わかっていても、そうせずにはいられない、吹き溜まりみたいな思いがあるのだ。
「……お前は自由でいいなぁ」
 そう憎々しげにつぶやいたのは、兄の浪人が決まった、今年の早春のことだった。あの日以来、俺は兄とろくに口をきいていない。

 冷蔵の棚から、スポーツドリンクと水を取って、レジに向かう。
 いっそのこと、ここでプリンを買って、兄のように食い尽くしてやろうかとも思ったが、父親の「出て行け」の一言で、鳴いていた腹の虫もすっかり黙ってしまった。早く喉の渇きを潤したかったが、時間のせいか、レジはそこそこの列になっている。

「あの……」
 窓に映る空をぼんやり眺めていると、前方から声がかかった。前に並んでいたのは四十歳前後の女性で、丸みのある体つきをしている。その風貌から察するに主婦のようだ。彼女は俺の手元を見ながら、
「買うのは、その二つだけですか?」
 そんなことを訊いてくる。

 俺は質問の意図がわからないまま、「はい」と答えた。
「じゃあ、先にレジどうぞ。私、今日たくさん買ったので……」
 カートにはカゴいっぱいの商品が乗せられていた。
「私のレジが終わるの待ってたら、せっかくの冷たい飲み物がぬるくなっちゃう」
 そう言って、彼女はどうぞどうぞと俺を促す。
 俺は、ありがたく順番を譲ってもらった。レジを終え、
「ありがとうございました」
 俺が頭を下げると、彼女は照れくさそうににこにこし、体を更に丸めて会釈した。

 ボストンバッグにペットボトルの水を入れ、スーパーの外に出る。
 太陽が目を焼くようだ。
 スポーツドリンクのキャップを捻り、口へ運ぶ。順番を譲ってくれたあの人のお陰で、冷たいものを冷たいまま飲むことができた。
   ありがたい。
 ああやって人に気を遣ってもらったこと自体、なんだか久しぶりのような気がする。兄が受験生になってからというもの、気を遣うばっかりで、遣われたためしがない。だから余計に、こういうやさしさが身に沁みる。

 おかげで、歩を進める足にも力が戻った。
 行く当てもなく、公園に来てみたが、あまりの暑さに誰もいない。ベンチは直射日光に照らされて、そのまま座ったら火傷しそうなほどだった。こうなったら、建物の中に避難するしかない。
 来た道を少し引き返す。木陰を選んで歩き進め、着いた先は図書館だった。ここだと出入り自由な上に、お金もかからない。クーラーが程よく効いていて、何より人がいても驚くほど静かだ。今日のささくれだった気持ちを落ち着けるのに、ちょうどいい場所だと思った。

 見渡すと、参考書やノートを広げ、受験勉強に勤しむ人も多くいた。
 ノートにペンを走らせる音と、ページをパラリとめくる音。
 静けさの中から聞こえる音には、無音と違った落ち着きがあった。
 赤本を広げた受験生を見ると、つい、兄の姿が頭に浮かぶ。
   この人たちも、家の中で傍若無人な振る舞いをしているのだろうか。
 そんな余計なことを考えながら、俺は棚から本を出しては開き、しまい、また出すを繰り返した。

 ようやく読むのに手頃な本を見つけ、適当な場所に座る。ページを開き、文字を追ってはみるものの、内容がちっとも頭に入ってこない。文字はただ、目の上を滑るだけだった。
 このとき、ふと気がついた。
 父親から「出て行け」と言われたことに、俺は思いのほか傷ついていたのだ。
 あのときの父の目は、祖父の目にとてもよく似ていた。
 あの目で、冷たく睨まれると、自分の存在そのものを、否定されたような気持ちになる。

 
 歯科医を引退した祖父は、元気なうちに俺たち家族に家を譲り、祖母と二人、介護付き住宅に転居した。祖父は、歯科医院を継いだ息子夫婦の邪魔になるのを嫌がり、同居を望むことはなかった。
 そのかわり、祖父母は二週に一度の頻度で、我が家に遊びにやって来た。
 祖父は何よりも、自分が建てた歯科医院を愛していて、その様子を外から窺うのを楽しみにしていたのだ。

 学校から帰ってきて、玄関に祖父の靴があると、俺の心は鉛を飲んだように重たくなった。手を洗い、すぐに自分の部屋に逃げたかったが、無視したら、後から何を言われるかわからない。俺は必要以上に、祖父に傷つけられるのを恐れていた。
「ただいま!」
 ためらう気持ちに蓋をして、リビングに顔を出す。祖父は視線をこちらに向けると、
「なんだ、お前か……」
 とがっかりする。わざわざ毎回、口に出してそう言うのだ。

「瞬ちゃん、おかえり。みんなにお菓子を買ってきたからね」
 祖父のつれない態度を気にしてか、祖母がやさしく声をかける。だが、祖父は何が気に入らないのか、
「菓子は慶太が帰ってきてからだ。瞬太、先に手を出すんじゃないぞ」
 不機嫌そうに釘を刺した。祖父は俺のことを、随分と意地汚い人間だと思っているらしい。
 兄が「ただいまー」と帰ってくる。
 すると祖父は跳ねるように立ち上がった。悪い脚をもどかしそうに引き摺って、いそいそと玄関に向かっていく。俺のときとは大違いだ。
「おお、慶太! 帰ってきたか!」
 玄関で兄の頭を撫で回す祖父を横目に、俺はそそくさと部屋に戻る。後ろ手で静かにドアを閉め、じくじくと流れてくる涙を、手の甲で強く拭い続けた。
 祖父が死んでもう五年になるのに、未だにそんなことを思い出す。

 ため息をつきながら本を閉じ、テーブルの上に置く。祖父の残像を振り払おうと、ギュッと目を閉じたそのとき、ポケットに入れていたスマホのバイブが唸った。取り出して通知を見ると、母からだった。

   今日は午後五時には終わります。大事な話があります。二人で夕飯を食べに行きませんか? なんでも食べたいものを言って下さい。

 仕事の合間に送ってきたのだろう。十七にもなって母親と二人きりの外食は、どうにも気恥ずかしい。何より兄との諍いを、銭形平次でごまかした恨みもある。

 このまま無視しようかとも思ったが、大事な話、というのが気にかかった。友達の家に押しかけて「泊めてくれ」なんて気軽に言える柄でもない。辺りが暗くなれば、どうしたって今日の寝床に困ることになる。
 不本意ながらも、俺は精いっぱい大人のふりをして、母の申し出を受けることにした。

 鰻嫌いの父のせいで、うちでは土用の丑の日に、鰻を食べたことがない。 なんでも好きなものを食べていいのなら、ここは豪勢に鰻といこう。
 鰻重。白焼き。肝焼き。う巻き。肝吸い。
 思う存分、鰻を食い尽くし、腹の中を父の嫌いな鰻だらけにしてやる。
 そんなことで今日の恨みを晴らせるわけではない。だが、こういう機会でもないと鰻をたらふく食べられない。
 俺はそうやって自分を納得させながら、
    鰻。
 と母に返信をした。



第3話につづく

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花丸恵
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