名前を書く季節
三月も半ばを過ぎ、お子さんの入学準備で忙しい親御さんがたくさんいらっしゃるのではないだろうか。
私は自分自身の入学準備しかしたことがないので、その大変さが全くわからない。若かりし頃の母も、きっと準備に大わらわだったことだろう。
入学準備といえば、ランドセルや体操着など、身に着ける物の準備に目を向けがちだが、地味に大変なのは、子供に持たせる物に名前書くことなのではないかと思う。
筆記用具売り場には、名前書き専用のペンが売られている。布に書いてもにじまず、落ちにくいらしい。落ちにくいなら尚の事、失敗が許されない。
「まい」と書くところを、何故か「まり」と書いてしまい、何とか「り」を「い」に見せようと奮闘する、そんなことをしている親御さんもいらっしゃるかもしれない。本当にお疲れ様です。
名前を書くといえば、私には思い出すことがある。
高校二年生の頃のことだ。休み時間に友人と話をするため、私は隣のクラスの教室にいた。話をしながら、ふと横の机に目をやると、前の授業の教科書が出しっぱなしになっている。何のことはない日常的な光景だが、私はその教科書を見て目を丸くした。裏表紙の名前を書く欄に、丸く可愛い大きな文字で、
さきの
と、書かれていたからだ。
崎野さんという人が、そのクラスにいた覚えはない。もしいたとしても、普通はフルネームを漢字で明記するだろう。しかしそこには、名前欄からはみ出すような子供じみた字で、
さきの
と、書かれている。はて?と思っていると、その教科書の持ち主が戻ってきた。その子の名前は「さき」といった。
つまり彼女の教科書に書かれてあった「さきの」は、
「これはさきの物です」
という意味だったのだ。会話で使う、
「そのプリン、あたしのだから」
と同じ感覚で書かれたものだと知り、ちょっとした衝撃が走った。
確かに、物を所有していることを主張するとき、
「それ僕のです」「私のです」
と日常的に言う。しかしそれは会話だからそういうのであって、物品に名前を書くときに、普通そんなことはしない。
自分で言うのも何だが、私はまじめで少しばかり厳格な性格なので、こういうことを平然としてしまうことに抵抗がある。しかし、このときは素直に「面白い」と思ってしまった。
さきちゃんは、自分の教科書に「さきの」と書いても全く違和感のない、背が小さくて、ボブの黒髪が似合うお転婆さんだった。自分のことを「私は」ではなく、「さきは」と言っていた覚えがある。
自分の物に「さきの」と抵抗なく書けて、それを受け入れてもらえるキャラクターのさきちゃんがうらやましいと思った。でもきっと、さきちゃんも、高校二年生だからこそ、こういうことができたのだろう。
小学生が「さきの」と書いたところで「名前がわかるように書いてください」と親や先生から指導されるだけだし、背伸びしたい中学生は、カッコ悪くて、そんな子供っぽい真似はできない気がする。
一年間の高校生活を経て、自分のキャラクターが、生徒や先生にある程度周知された、高校二年生だったからこそ、彼女は教科書に「さきの」と記すことができたのだ。
自分の中にある幼児性も、背伸びしたい気持ちも、大人になっていく自分自身も、全部含めて自己主張ができる。高校二年生とはそんな時期なのかもしれない。
さきちゃんと私は、ほぼ交流はなかった。
一度だけ、彼女がクリアファイルに、雑誌の切り抜きらしい黒木瞳の写真を入れていたの見て、
「黒木瞳好きなの?」
と聞いたら、
「うん、きれいだから!」
そんな会話をしたことが印象に残っている。
今となっては、さきちゃんの苗字も思い出せない。それでも私が、今でもさきちゃんのことを憶えていられるのは、あの教科書に書かれた、
さきの
という、丸くて可愛い大きな文字のお陰なのだ。