夢と鰻とオムライス 第8話
◇
急に決まった旅にしては、割と円滑に事が運んだ。八月のハイシーズンにもかかわらず、ホテルが一部屋だけ空いていたのだ。
「こんなこと滅多にないよ。いやぁ、諦めずに電話してみるもんだなぁ」
こうちゃんは嬉しそうだ。
予約したホテルは、こうちゃんと恵梨子さんがよく利用していたところで、バスルームの蛇口を捻ると、温泉が出てくるらしい。
甲府盆地を見渡せる展望レストランや、地下にはワインの貯蔵庫もあって、料金を支払えばワインの試飲もできる。
「あー、瞬太が飲めたらなぁ」
こうちゃんは口癖のように、そればかり言っていた。なんだか、自分が未成年なのが申し訳なく思えてくる。
「舐めるくらいなら、付き合ってもいいよ」
冗談めかして言うと、こうちゃんは楽しそうに、ハハハと声を上げて笑った。
「そういうわけにはいかないよ。瞬太の母ちゃんに、どやされる」
こうちゃんと母は幼なじみだったこともあり、会えば気安く冗談を言い合う仲だ。どちらかと言えば、父親よりも、母とこうちゃんのほうが兄弟みたいに見える。
……そういえば、母の家庭内改革は進んでいるだろうか。
「明日は渋滞に巻き込まれないうちに早く出よう。夜明け前に出かけるから、そのつもりでな」
「はーい」
その日は夕飯を簡単に済ませ、早々と布団に入った。
暗いうちに起き出し、支度をして部屋を出る。駐車場に行き、車に乗り込むと、車内に閉じ込められていた夏の熱気がむわっと体にまとわりついた。
「今日も暑くなりそうだなぁ」
こうちゃんはそう言いながらエンジンをかけた。道行く人はまだ少なく、車もまばらだ。真上の空はまだ暗いが、あと二時間もしないうちに白んでくるだろう。
車を走らせてから四十分ほどで、緑色の標識が見えた。車が高速道路のETCゲートに近づくと、行く手を遮っていたバーが、どうぞ、とばかりに開く。
エンジンがウウンと唸りを上げ、車が本線に合流する。その加速音が振動となって体に響いたとき、強烈な懐かしさとやるせなさが、俺の胸を突き上げた。
子供の頃、夏休みになると、父が運転席、母が助手席。後部座席に俺と兄が座り、旅行に出かけた。福島の五色沼、群馬の鬼押し園、長野の上高地。母の希望で美肌に効く温泉に行くこともあった。
父はあまり趣味のない人だが、車は好きだった。
普段仕事ばかりで、ろくに遊んでもくれない。そんな父の罪滅ぼしが夏の数日間に詰まっていたのだ。
いつもより笑顔の多い父や、楽しそうに話す母。俺に何かとちょっかいを出す、兄のにやけた顔。
そんな家族を見ていると、幸せな気分になれた。
ある年の夏、ずっと欲しがっていた白のランドクルーザーを買った父は、屈強なデザインのボディを毎日のように磨いていた。それに乗って旅行に出かけるのを、心待ちにしていたのだ。
家族旅行の当日、いつにも増して上機嫌な父の様子に、俺もなんだか嬉しくなり、いつも以上に兄と一緒にはしゃいでいた。
だが、調子に乗るとろくなことはない。
サービスエリアに着いた途端、父が我先にと車から飛び出した。
トイレを我慢していたのだ。
慌てる恰好がおかしくて、早く父の後をついていこうとドアを開けた次の瞬間、ザザザッと、何かが擦れる音がした。
そこは少し狭苦しい作りのサービスエリアで、駐車スペースのすぐ脇に植え込みがあった。その葉っぱや小枝が、父が大事にしていた車のボディを傷つけてしまったのだ。
愉快な気持ちが一気に吹き飛ぶ。
そのとき母は助手席でうとうとしていて、何が起こったのかわかっていなかった。俺の失態を見ていたのは兄ひとり。兄は目を丸くして、車についた細かな傷を見つめていた。
「どうしよう……」
声を漏らすと、兄は言った。
「いいか、瞬太。お父さんが帰ってきても、何も言うな。黙ってるんだぞ」
「え?」
「俺に任せろ。お前は平気な顔をしてるんだ。泣くのもだめだ。いいな?」
俺は頷き、下唇を噛んで泣くのを堪えた。
トイレから戻ってきた父は、案の定、青ざめた。
こういうときは有無も言わさず、お調子者の俺が疑われる。叱られるのを覚悟したとき、兄が俺の前に立ち塞がった。
「お父さん、ごめんなさい。汗で手が滑って、ドアが勢いよく開いちゃったんだ」
驚いて兄を見る。その目が《お前は黙っていろ》と、言っているように見えた。父が口を開くと、
「もっと勉強頑張って、良い歯医者さんになるから、許してください」
父の発言を遮るようにそう言って、兄はうつむいた。
少し芝居がかっていた気もするが、兄なりに父を説き伏せようと必死だったのかもしれない。
兄は、自分ならそこまで叱られないと踏んで、俺を庇ってくれたのだ。自分のほうが父に愛されていることを、兄はきちんと自覚している。それを、こういう形で誇示されることがどれほどつらいか、たぶん兄にはわからない。
「お父さん……」
本当は自分がやった……そう言おうとしたが、兄はギッと睨んで俺を黙らせた。父ははじめこそは渋い顔はしていたが、兄の「良い歯医者さんになる」の一言を聞くと、
「これからは気をつけるんだぞ」
と静かに言い、それ以上兄を責めることはなかった。
旅行から帰った翌日、父は修理工場に車を預けに行き、兄は塾へと出かけて行った。
窓から差すオレンジ色の濃い西日が、キッチンの温度を上げている。
カレーの匂いがしていたので、たぶんその日の夕飯はカレーだったのだろう。
食事の支度をする母の背中を眺めるうち、俺は黙っているのがつらくなった。かすれるような声で母を呼ぶ。車を傷つけたのは、兄ではなく自分だと告白すると、鍋を掻き回していた母の手が止まった。
喉元を突き上げる苦しい気持ちが、嗚咽に変わる。母は驚いた顔をして俺を見た。しゃがみ込み、しゃくりあげる俺の両肩をさする。
「ねぇ、お母さん……もしあのとき、俺がやったって正直に話してたら、お父さんはもっと怒ったよね? 謝ったのがお兄ちゃんだったから、お父さんは怒らなかったんだよね?」
ずっと見て見ぬふりをして、やり過ごしてきた疑問を、初めてぶつけた。
このとき俺は、母の「そんなことないよ」という一言を期待していたのだ。母がそうやって打ち消してくれるなら、それを頼りにしようと思っていた。だが母は、憐れむような眼差しを向けるだけで、何も言わない。
「瞬太……」
黙っていた母がようやく俺の名を呼んだとき、火にかけていたカレーの鍋が、ボコン! と派手に音を立てた。
母ははっと我に返ったように立ち上がり、慌ててガスコンロの火を止めた。
高速に入るときの、エンジンの振動が、自分が小さかった頃の家族の姿を呼び起こす。その情景は、目の前を流れる車窓の景色のように、体の中を通り過ぎていった。
空全体を覆っていた濃い群青色が、東のほうから白い絵の具を落としたみたいに、明るく滲みはじめる。夜の気配が徐々に空から追いやられていくと、まるで置いて行かれた子供のように、白い月がぽかんと浮かんでいた。
◇
高速を降り、甲州街道を少し走ると、ぶどう棚の合間に家が立っている光景が続いた。目を凝らすと、食べ頃のぶどうが、空を遮るように下がっている。
「あ、あのたくさんあるのは巨峰かな」
「あそこに見えるはシャインマスカットだね」
子どものように、いちいち声に出してしまう。朝露を纏ったぶどうは、宝石のように美しかった。
車はアップダウンを繰り返しながら、果実の道を進んでいく。
車窓から外を眺めていると、広い駐車場を備えたコンビニが見えてきた。まだ早朝なので、停車している車も少なく、周囲はしんとしている。
店から離れた日陰になる場所に車を停めると、こうちゃんが言った。
「ちょっと早いけど、軽く飯でも食うか」
「うん」
こうちゃんと二人、車を降り、コンビニに入る。ずっと夜明け前の道を走ってきたので、煌々とした店内の照明が、やけに眩しく感じる。駐車場に車が止まっていたので客がいるのかと思ったが、中にいたのは店員だけだった。
「こうちゃん、何にする?」
うーん、と顎に手を当てながら考えている。いろいろな食べ物が目の前にあると、どうしたってあれこれ悩んでしまう。
「コーヒーは飲みたいんだよな。でもそうすると、どうしたってパンに手が伸びる。でもおにぎりも捨てがたい」
「コーヒーに合うおにぎりがあればいいのにね。焼きおにぎりとか、ツナマヨとかなら合いそうだけど」
「おっ、焼きおにぎりとコーヒー、両方とも香ばしい系だからいけるかも。うーん、マリアージュしてみたいねぇ」
マリアージュ?
なんか聞いたことがある。相性がいい、みたいな意味だろうか。
「ねぇ、こうちゃん。《マリアージュ》の使い方、それで合ってる?」
「ん? なんか言ったか? 瞬太、なに食う?」
あ、ごまかした。
どうやら、こうちゃんは《マリアージュ》という言葉を、よくわからずに面白がって使っているようだ。
おにぎりの棚をくまなく見たが、焼きおにぎりは売っていなかった。
こうちゃんはツナマヨおにぎりと、ミックスサンドを手に取る。おにぎりがコーヒーとマリアージュしなかった場合の対策らしい。
俺は、ほうじ茶と、鮭、明太子のおにぎりにした。
「お、手堅いねぇ」
変わり種の具に興味はそそるが、そそるだけで手が伸びない。
「こういうの性格出るよね。俺、チャレンジ精神が足りないんだ」
「何言ってんだよ。この前オムライスにチャレンジしてたじゃないか」
大失敗のオムライスが目に浮かぶ。
するとこうちゃんは棚を指差して言った。
「あ、オムライスのおにぎりもあるぞ」
「ホントだ」
おにぎりの懐の深さは無限大だ。
会計を済ませて車に戻ると、こうちゃんは早速、コーヒーとツナマヨおにぎりのマリアージュを確認する。
「どう?」
「うーん、合うといえば合う気もするし、合わないといえば合わない」
やはり、サンドイッチとのマリアージュには敵わないようだ。
スマホで調べてみたら、《マリアージュ》は、ふたつのものの組み合わせが良いことを示す言葉で、日本では主にワインと食事との相性が良いときに使うそうだ。フランス語で《結婚》という意味らしい。
ふーん、と思ってスマホを閉じると、途端に眠気が襲ってきた。小腹が満たされたせいだろう。いつもより四時間以上早く起きたせいで、瞼が重い。
「あー、少し眠くなってきたなぁ」
「俺も」
こうちゃんと二人であくびを連発する。
空は明るいが、コンビニ以外の店はどこも開いていない。町が動き出すまで、あと数時間は時間を潰さなければならない。
俺とこうちゃんは、シートを倒して休憩することにした。
第9話につづく