妖怪の娘 #短編小説
「海砂糖をご存じですか?」
うみざとう。
その言葉は、耕造の白髪頭の中で《海砂糖》という漢字に変換されて聞こえていた。
耕造に声を掛けてきたのは、中学生くらいの女の子だった。
憤懣やるかたない思いで、堤防釣りをしていた彼の目に、濃い藍色のジーンズに、スカイブルーのTシャツ姿が眩しく映る。黒くて長い髪をきゅっと後ろで束ねた少女は、折りたためる小さなイスを手に、じっと耕造を見つめていた。この辺では見ない顔だ。竿は持っていないので、釣りに来たわけではないらしい。
「海砂糖? しらないねぇ。金平糖の親戚みたいなものかい?」
耕造が訊くと、少女は手に持っていたイスを広げ、隣に座った。
「コンペイトウ? 外国の政党の名前か何かですか?」
まさか真横に座られるとは思わなかったので、耕造は、内心うろたえながらも、持っていた竿を地面に置いた。リュックを手に取ると、中から個包装の金平糖を取り出し、少女に手渡す。
「これが金平糖だよ」
瑞々しい色が美しい。
「あっ、見たことあります。これ、昔からある砂糖菓子ですよね。きれい!……あの、頂いてもいいのでしょうか」
「どうぞ」
少女は個包装を開けて、青い金平糖を一粒、口に入れた。
「甘いです」
「だろうね。砂糖の塊だから」
「この突起が舌に当たる感じが面白いです」
少女は口をモソモソ動かし、感触を楽しんでいる。
「俺も、その突起の感触が好きでね。随分前に煙草をやめてから、すっかりこれが相棒だよ」
少女はもう一粒、金平糖を口に入れて、言った。
「でも、私が尋ねた『うみざとう』は、砂糖菓子ではなく、妖怪のことなんです」
「妖怪?」
「海に座るに頭と書いて、海座頭です。ご存じですか?」
「いいや」
「琵琶を背中にかついで、目が見えないので杖をついています。海に出現する大きな妖怪で、船などを襲うんです」
「悪いヤツだな」
耕造は渋い顔をした。
「なぜかはわかりませんが、月末になると、波間に現れるそうですよ」
「へえ、詳しいね。学校で妖怪とか流行ってるの?」
少女は首を振った。
「いいえ、個人的な趣味です。受験勉強の息抜きに、スマホで妖怪のことを書いた記事を読んだら面白くてハマってしまって……。海沿いにお住まいの方なら、海にまつわる妖怪の話をご存じかもしれないと思ったんです」
「役に立てなくてすまなかったね」
「いいえ、その代わり、金平糖を頂きましたから」
二人の顔は海をむいたまま、会話だけが行き交っている。
耕造は、どちらかと言えば口下手な方だが、少女のテンポのよい、大人びた口調にのせられて、不思議とするする話ができた。
「実は俺も今、一人娘を妖怪にさらわれそうになってるんだ」
「え?」
「結婚したいんだとさ。16も年上の、子供のいる男と」
「16……。それは 随分と厚かましい妖怪ですね」
「そうなんだ! 産婦人科医をしているらしくてね。うちの女房なんか、医者ってだけで、喜んじゃって……」
なんで、孫くらいの年の少女に、こんな愚痴を言っているのだろう。耕造は大きなため息をついた。
娘の由海が、子供がいる年上の男と結婚すると言い出したとき、耕造は気も狂わんばかりになった。四捨五入したら五十になるような初老の男に、初婚の娘を嫁がせるなんて有り得ない。だが、妻の真由子は、この良縁を逃すまいと息巻いた。
今日、相手の男が家にやってくると耕造が知ったのは、朝のことだ。台所でいろいろ支度をしている真由子に、
「今日、山岸さんがご挨拶にいらっしゃいますから、お父さんもそんな汚い格好してないで着替えてください」
けんもほろろに言い渡された。娘の幸せの邪魔をするな、いい加減諦めろ。そう話す真由子の目を盗み、耕造は釣り道具を抱えて、堤防にやってきたのだ。
「――あの、今更申し上げにくいのですが、実は私、その妖怪の娘なんです」
「は?」
少女はそう言うと、突然立ちあがり、耕造に頭を下げた。
「はじめまして。山岸祐太郎の娘の那海といいます」
妖怪の娘。山岸祐太郎の娘。那海。
その言葉が、波音と一緒に揺らぎ、耕造の頭を混乱させた。
「おばあさまに伺ったら、こちらではないか、とのことでしたので、腰を据えてお話したいと思い、軒先にあったイスをお借りしました」
「へ?」
こういうとき、ろくな返事ができないものだ。
「おじいさまには、もっと早くご挨拶を、と思ったのですが、私は受験生で夏期講習などの都合もあり、今日明日しか都合がつかなかったんです。申し訳ありません」
先程までは、若いのにしっかりした子だと思っていたが、山岸の娘となると、この大人びたところが返って恐ろしく感じる。耕造は死に際の金魚のように、口をパクパクさせた。
「き……きみに、おじいさまと呼ばれる筋合いは、な、なぃ……!」
相手は女子中学生である。
怒鳴り散らすわけにもいかず、耕造は蚊の鳴くような声を漏らした。
「では、何とお呼びしたらよろしいでしょうか」
那海は動じない。
その若々しい顔をずずいと寄せ、真剣なまなざしで耕造を見つめる。その真っ直ぐな目に、気圧されそうになった。
「こっ、耕造さんで」
「わかりました」
「耕造さん」
「は、はい」
呼ばれてみると、妙に気恥しい。
「今日、父は急患で来られなくなりました」
「なっ、なんだと!?」
「産婦人科医にはよくあることなんです。患者さんお一人だけでなく、父は、おなかの子、二人分の命を預かっています。どうかお許しください」
二人分の命を持ち出されては、文句は言えない。
「父の代わりに、私が結婚のお許しを頂きに来ました。父には、絶対に耕造さんを説得すると約束してきました。なので、許して頂けなければ、私は父に会わせる顔がありません。どうか父と由海さんの結婚をお許しください」
立て板に水のお願いである。
「……むっ、娘を寄こすなんて、卑怯だっ!」
耕造は、子供のような反論しかできない自分に嫌気がさした。
「でも、誰よりも父のことをそばで見てきたのは私です。どうか私の話を聞いて頂けないでしょうか」
もう、ぐうの音も出ない。
那海はこれまでのことを、耕造に話し始めた。
「母は、私が五歳のときに病気で亡くなりました。その後は父、祖父母と同居していたのですが、小五で祖父、中一で祖母を亡くし、その後は父親と二人で、暮らしてきました。でも、父も生活が不規則で、私は一人で家にいる時間が多くなりました。夜、物音がすると何だか不安で……。そんなとき、由海さんが家に来てくれたんです。由海さんは、母と呼ぶには若く、姉と呼ぶには少し年上ですが、私にはその年齢差が、とても心地よくて……」
那海は、立ち上がって、頭を下げた。
「もし父が、由海さんを悲しませるようなことをしたら、私が許しません。私が、由海さんの味方になります。だから結婚を許して頂けないでしょうか」
由海と那海。
これも縁なのだろう。名前だけ見れば、すでに家族のようだ。
言いたいこと、心配なことは山ほどあるが、真剣な那海を目の前にすると、それらは余計な取り越し苦労でしかないように思われた。何よりも、この賢い少女が、家族として由海を迎え入れたいというのである。由海の存在が、この少女の助けになるなら、それは幸せなことではないか。
耕造がそう思い始めていると、
「耕造さん、引いてます」
那海が海面を指差した。浮きが大きく上下している。引きの強さに負けまいと、耕造が腰を入れてグイグイ引き上げると、大きな魚が海面から跳ねあがった。
「那海さん、網! 網!」
「はいっ!」
那海が網で魚を支えた。耕造が声を上げる。
「鯛だ! 真鯛だ!」
「ええっ? すごっ!」
先程まで、大人びた話しぶりだった那海が、子供のように目を輝かせている。
「那海ちゃん、刺身は好きか?」
「はいっ!」
「じゃあ、おじいちゃんが捌いちゃる! 今日の夕飯は鯛の刺身だ!」
「やったー!」
「よっしゃー! 今日はお祝いだ!」
心地いい潮風が流れる中、防波堤に、金平糖を散らしたような賑やかな声が響く。楽しげな二人の姿は、すでに、おじいちゃんと孫そのものだった。
お読み頂き、本当に有難うございました!