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夢と鰻とオムライス 第4話

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 翌朝、両親が仕事に向かい、兄が予備校に出かけると、俺は荷造りを始めた。三週間は帰らないつもりで持ち物を選ばなければならない。
 気がつけば、昨日のボストンバッグはパンパンに膨らんでいた。持ってみると結構重たい。やれやれと思っていると、弾けるような音を立ててスマホが鳴った。

「はい、もしもし」
「来ちゃった!」
 スマホから、叔父、光一のおどけた声が聞こえてくる。
 付き合いたての彼女みたいな言い草に、思わず噴き出す。
「何言ってんの、こうちゃん」 
「いやいや、本当に来たんだよ。裏の駐車場にいるから窓開けてごらん」
 立ち上がり、カーテンを開ける。下を見ると、こうちゃんが愛車の窓から顔を出し、手を振っていた。

「迎えに来てくれたの?」
「あたぼうよ」
「あたぼうよってなんだよ?」
 母が観ていた時代劇に、そんなことを言う岡っ引きがいた。
「当り前だ。べらぼうめの略だよ」
「そうなの?」
 知らなかった。面食らっていると、
「準備できたら降りといでー」
 間延びしたような声を残して通話が切れた。

 母はああ言っていたが、本当はこうちゃんの迷惑になるんじゃないかと気がかりだった。迎えに来てくれたということは、それなりに歓迎してくれているようだ。俺はほっと胸を撫で下ろすと、重たいボストンバッグを担ぎ上げ、階段を下りた。

 玄関ドアを開けると、真夏の熱気がどっと押し寄せてきた。
 今日も暑い。
 眩しさに思わず目を閉じると、強い日差しのせいで、瞼の裏が赤く滲んだ。

「おー、瞬太。久しぶりー。大きくなったなぁー」
「親戚のおじさんおばさんって、会う度に必ずそれ言うよね」
 苦笑すると、こうちゃんは俺の手からボストンバッグを受け取り、
「いや、不思議なもんで親戚の子っていうのは、いつだって小さいもんなんだよ。この荷物は後ろに載せとくぞー」
 そう言いながら後部座席のシートにバッグを置き、運転席に座った。俺も助手席に乗り込み、きっちりシートベルトをする。

「お世話になります」
 座ったまま頭を下げると、こうちゃんはすかさず
「はい。お世話します」
 調子よく言ってエンジンをかけた。
 ブウンという音と共に、体に振動が伝わる。フロントガラス越しに見える青い空には、夏らしいたっぷりとした雲が浮かんでいた。
 昨日の鬱屈とした気持ちが嘘のように、心の中は晴れやかだ。こんな気持ちになるのは久しぶりだった。

「もうすぐ昼時だなぁ、瞬太、何食いたい?」
「なんでもいいよ」
 ハンドルを握りながら、こうちゃんは「んー」と唸っている。こうやって気にかけてもらえるだけでありがたい。
「あ、そうそう。うちの近所に昔懐かしい感じのパン屋があるんだよ。そこのサンドイッチや惣菜パンがボリュームがあってなかなかうまいんだ。それでもいいか?」

 パン屋、と言われ、昼飯を買いに行く兄の姿が浮かんだ。
 また眉間が疼き出しそうな気がしたが、俺は「うん」と答えて、車窓から降り注ぐ太陽に目を細めた。
「いやぁ。それにしても今年の夏は暑いなぁー。この前一日にアイス三本食って、冷たい麦茶ガブガブ飲んでたら腹壊しちゃったよ」
 こうちゃんはハンドルを握りながら笑っている。
 昨日のことをあれこれ訊かれるかと思っていたが、こうちゃんは何も言わなかった。きっと母からあらかた、事情は聞いているのだろう。

「ラジオつけていいか?」
「うん」
 考えてみれば、こうちゃんと会うのは二年ぶりくらいで、こうして二人きりになるのは初めてのような気がする。
 こういうとき、どちらかが程よく話していないと気詰まりなものだが、会話が無くても平気だった。車内を流れるラジオの音が、隙間や空白をうまく埋めてくれたのかもしれない。

「さぁ、着いた着いた」
 こうちゃんはパン屋の隣にある駐車場に車を入れた。
 ガラス扉から店の中を覗くと、給食の配膳に使うアルミトレーの上に、大ぶりのサンドイッチや焼きそばパン。グローブ型のクリームパンやチョココロネなどが並んでいる。
 確かにその光景は、懐かしいという言葉がぴったりだった。このお店の中だけ、時間が止まっているみたいだ。

 店に入ると、こうちゃんはトング片手に、
「これもうまいんだ、これもなかなか……」
 なんて言いながら、どんどんトレーに乗せていく。
 会計を終え、店員から手提げ袋を受け取ると、指にずっしりと持ち手が食い込んだ。
「こんなに食えんの?」
 俺が訊くと、
「パンなんて空気食ってるようなもんだよ、大丈夫大丈夫」
 そう言ってこうちゃんはからからと笑う。笑う度に揺れるお腹が、心なしかひと回り大きくなっている気がした。

 コンビニに立ち寄り、アイスコーヒーを二つ買う。こうちゃんは一つを俺に手渡すと、
「あれが俺のおうち」
 そう言って、少し先に見えるマンションを指差した。
 青空の下に伸びる白い建物は十階建てらしい。
「長いね」
「そうだな。時代劇に出てくる長屋は横に長いけど、これは謂わば、縦に伸びてる令和の長屋みたいなもんだな」
 令和の長屋  、なるほど。
 母にしても、こうちゃんにしても、例えがいちいち時代劇だ。
「こうちゃん、うまいこというね」
「だろ? って言いたいところだけど、前にラジオで誰かが、マンションは現代の長屋だ、なんて話をしてたんだ」
 ちょっとしたことでも自分の手柄にしないところがこうちゃんらしい。

 駐車場に車を停め、マンションに入る。
 コーヒー片手にバッグを担ぎながら、エントランスを抜け、エレベーターに乗った。
 こうちゃんが《3》のボタンを押す。
 一瞬、足許がひゅんと持ち上がると、上方に吸い込まれるように空間が動いた。
「最近運動不足でさ、普段は外の階段を使うようにしてるんだけど、今日は荷物があるからさ」
 言い訳みたいにつぶやきながら、三階でエレベーターを降りる。外に面した通路を歩くと、途中に螺旋状の階段があった。普段使っている階段とは、これのことだろう。

「ここ買うときに五階と迷ったんだけどさ、地面に近いほうが落ち着くからこっちにしたんだ」
 こうちゃんはそんなことを言いながら、ドアの前に立ち、センサーにカードキーを当てた。ピピッと音がした後、ガチャッと開錠。ハイテクだ。きっと中もお洒落に違いない。
 そんな期待を寄せながら開いたドアの先を見る。
「さぁ、どうぞ、上がって」
 目の前に広がる光景に俺は唖然とした。

「……汚い」
「ん?」
 部屋に向かうまでの廊下には、レジ袋が散乱している。袋は皆、先程のコンビニのものばかりだった。きっと買い物をして帰って中身を取り出し、そのまま放置しているのだろう。かろうじて道はあるが、あまり踏みたくない。
「ごめんなぁ。先週までめちゃくちゃ忙しかったんだよ。まぁフリーの身分で忙しいのはありがたいことなんだけどさ。おかげで家の中がこの有様だよ」

 多忙とはいえ、ここまで汚くなるものだろうか。
 玄関先でこれでは、きっとその先も荒れ果てているに違いない。
 俺はその場でチューッとストローのささったアイスコーヒーを飲み干す。喉をキリッとした涼感が流れ落ちた。

「こうちゃん、掃除始めるよ!」
 高らかな宣言が、廊下に響くと、俺は挑みかかるように部屋に突入した。放置してあるレジ袋を拾って、散乱したゴミを手あたり次第入れていく。
「パン食ってからにしようよぉ」
 情けない声を上げるこうちゃんを無視して、俺は清掃を続けた。こんな所で飯なんか食えない。

「なんか落ち着かないなぁ」
 こうちゃんは独り言のようにそうこぼすと、洋服に埋もれたソファーに座り、買ってきたパンをがぶりとかじった。
 ぷーんとソースの匂いがする。焼きそばパンだろうか。
 それを食べ終えると、手持ち無沙汰なのか、こうちゃんも片付けに加わり始めた。

 いるものといらないものを訊きながら、レジ袋に詰めていく。さすがに容量が足りなくなり、こうちゃんが持ってきた大きなゴミ袋を使う。
「洗面所の棚の奥から、こんなのが出てきたよ」
 こうちゃんの手にはゴミ袋の他にも、お掃除シートと新品のマイクロファイバークロスが数枚握られていた。どちらも掃除の強い味方だ。新たなアイテムが加わったことで、本格的に夏の大掃除が始まってしまった。

 一年のうちで、今の時期が最も日が長い。
 にもかかわらず、掃除を終えて窓の外を見ると、空はとうに暗くなっていた。時間を見ると午後七時。体は汗まみれで臭かったが、きれいになった廊下のフローリングや、片付いた部屋を眺めていると、爽快な気分になった。
「お世話になったのはこっちのほうだったな」
 こうちゃんが笑う。そういえば俺は今日、そんな挨拶をして家を出てきたのだ。
「さぁ、シャワー浴びたら飯にしよう」
「うん」
 買ったパンがたくさんある。

 とりあえず体をさっぱりして、早くパンに食らいつきたい。
 泣き喚く腹の虫をなだめながら、俺は汗臭い服を脱ぎ捨て、バスルームに飛び込む。
 そして、愕然とした。
「こうちゃん! 風呂も汚いっ!」



第5話につづく

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花丸恵
お読み頂き、本当に有難うございました!