スペイン語で懇願
「そういえば、『ムーチョ』って、スペイン語で『もっと』っていう意味らしいよ」
何が「そういえば」だったのかは忘れたが、夫にそんな話をしながら、私は鍋物をつつき、ビールを飲んでいた。他愛ない、夕飯時の夫婦の会話である。
夫は妻が唐突に披露した豆知識に、これといった返答をするでもなく、ただ一言、
「へぇ」
と言って目を輝かせていた。
思えば私は、これまでスペインと縁もゆかりもない生活をしてきた。
マドリードに行ったこともなければ、スペイン人の知り合いもいない。
そんな私がスペインと言われて、真っ先に思い浮かべるのは、かつて住んでいた最寄り駅近くにあった「スペイン料理の居酒屋」さんだ。
駅の改札を出て、北口の階段を降りると、白いコック帽を被った眼鏡の御婦人が、お店のチラシを配っているのをよく見かけていた。
「スペインです。スペイン料理です。スペイン料理の居酒屋です」
三段活用を思わせる言い回しで、リズムよく通行人にチラシを差し出す。
手に取る人は10人に1人程度。コック帽の婦人は慣れたもので、受け取ってもらえないことに一喜一憂することなく、サッとチラシを差し出しては、スッと手を引っ込めるという動きを繰り返していた。
私は一度だけ、そのチラシを受け取ろうとしたことがある。
チラシを受け取っていく人の様子を見ていると、コック帽さんの
サッと差し出し、スッと引く。
この動きの「サッ」の瞬間に、パッと手を出すと、うまくチラシをもらえることがわかった。
だが、駅から街中へ向かう人の流れも多く、この「スッ」と引くタイミングでコック帽さんの真横を通ってしまうと、チラシがうまく受け取れない。
私はまるで大縄跳びに加入するタイミングを計るように、コック帽さんの動きに注視し、チラシの捕獲に挑んだ。
しかし、幼少期に親から「運動神経ゼロ」と揶揄され続けた呪いのせいか、私は指一本動かす間もなく、コック帽さんの横を通り過ぎてしまった。
少し戻って受け取れば済む話だが、あの様式美ともいえるようなチラシ配りの所作を、何の芸もない
「1枚下さい」
の一言で崩してしまってもいいのだろうか。
そう思うと、どうにも心苦しく、私は後ろ髪引かれながらも、先を行くしかなかった。
この最寄り駅の街に16年暮らしたが、「スペイン料理の居酒屋」さんを一度も訪れることなく引っ越してしまった。今思えば、あのときチラシを受け取り、一度くらい飲みに行ってみればよかったと、淡い後悔がにじむ。
駅は再開発がすすめられ、駅ナカも広くなり、北口の雰囲気も様変わりしてしまった。
「スペインです。スペイン料理です。スペイン料理の居酒屋です」
あの軽妙な掛け声とチラシ配りは、今も健在なのだろうか。
サッと差し出し、スッと引く。
その光景に思いを馳せながら、私は2本目のビールの缶をプシュッと開ける。すると夫が、空のグラスをサッと差し出し、
「ムーチョっと。ムーチョっとだけビールちょうだい」
急におかしなことを言い出した。
夫はわざとらしくぺこぺこ頭を下げている。その姿はまるで、閉店間際の飲み屋で「あと一杯だけ」と粘る常連客のようだ。
「え? むう? なにそれ。ちょっとだけ入れればいいの?」
私が缶を片手に戸惑っていると、夫はううんと首を振った。
「違う。ムーチョっと!」
随分と念を押すなぁ……と思った次の瞬間、さっき夫に、
スペイン語で「ムーチョ」は「もっと」という意味だ。
と、話したことを思い出した。
つまり夫は、「ちょっと」ビールを注いでほしいのではなく、「もっと」ビールを注いでくれと言っていたのだ。私の話を聞いたとき、夫はすでにこの「ムーチョッとちょうだい」を放つ、絶好のタイミングを狙っていたらしい。
もしかしたらタイミングというものは、計るものではなく、狙うものなのかもしれない。
私もあのとき、タイミングを計ろうとせず、きっちり狙いを定めていれば、コック帽さんの手渡すチラシを受け取れたのではないか……。
そんなことを思いながら私は、夫のグラスになみなみと、開けたてのビールを注いだ。
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