夢と鰻とオムライス 第3話
◇
夕方になり、ようやく腹の虫も鳴きはじめた。
鰻だったらあそこがいい。
そう言って母が指定した店は、家からわりと近い場所にあった。
俺が店に向かって歩いていると、先に来ていた母が俺を見つけて無邪気に手を振った。
「あーよかった。おでこ腫れてない。もう大丈夫そうね」
喧嘩をして気まずくなっても、次に顔を合わせるときは明るく話しかける。母は家族に対して、いつもそれを貫いている人だ。
「父ちゃんや兄ちゃんの晩飯はいいの?」
「いいのいいの。お父さんには牛丼でも買うように言ってきたから。男二人で丼つつきながら反省してもらわないとね」
「ふーん」
無関心を装いながらも、母が自分の味方をしてくれた気がして嬉しくなる。俺も案外ちょろい男だ。
「なんでも好きなもの食べなさい。鰻重五人前でも構わないわよ」
さすがにそんなに食べるつもりはないが、
「じゃあ、遠慮なく」
そう言って、店に入った。
温かみのある照明。塵一つ落ちていない床。こじんまりとした造りではあるが、凛とした気配を感じる。串打ち三年、裂き八年、焼きは一生といわれる鰻職人のプライドが、店の隅々にまで行き渡っているようだ。
「やっぱり鰻屋はいいわねぇ。江戸の風情が残ってる」
時代劇好きの母が微笑む。
店員の案内で席につくと、母が早速、メニューをこちらに傾けてきた。
「どれがいい?」
「白焼き、う巻き、肝焼き、肝吸い、鰻重の松」
呪文を唱えるようにひと息で言う。欲張った俺の注文を聞いて、母はにやりと笑っていた。
「わかった。じゃあ私も鰻重の松にするわ」
水を持ってきてくれた店員に、母が注文を伝えると、
「あ、あと、ビールの大瓶一本」
そう付け加えた。今日は飲むつもりらしい。
一礼して店員が下がると、母はふう、と息をつき、少し構えてこちらを見た。
「鰻が来る前に話しておくわね」
「何を?」
「銭形平次」
「は?」
「あれであの場を切り抜けようとしたのは間違いだったわ。いくらなんでも瞬太に甘えすぎだわね。ごめん」
正面切って謝られると、かえって気まずい。
「出かける前に慶太に言ってきたの。瞬太に八つ当たりするくらいなら受験をやめてもいいって。傍で訊いてたお父さんは慌ててたけどね」
「へえ」
いきなり本丸に切り込んだらしい。
「たぶんね、お父さんにもお兄ちゃんにも、ちょっとした呪いがかかってるのよ」
「呪い?」
「そう。親の期待っていう呪い」
俺には無縁な呪いだ。
「それでもお父さんは、親から継いだ歯科医っていう仕事、好きだと思う。研究熱心だし、手先も器用だし、なんだかんだで向いてる。でもお兄ちゃんがお父さんと同じように、この仕事に向いているかはわからない。今年、歯学部に落ちたことは、お兄ちゃんにとって初めての挫折だったのかもしれない。自信がなくなると、本当にこれでいいのか迷うものよ。迷ったままだと何をしても身が入らない。お兄ちゃん、精神的にかなりしんどいと思う」
母がコップの水をぐびりと飲む。
「でもね、医療に関わる仕事を志す人間が、八つ当たりして人に怪我させるなんて言語道断なの。歯科医は治療をするとき、患者さんの痛みを想像して探りながら治療をする。技術ももちろん大事だけど、そういう痛みに対する想像力が大事だと思って私は歯科医をやってる。五百円玉を瞬太に投げつけたお兄ちゃんの行動はそれに反してる。……あのとき冗談で済まそうとした私がバカだったわ。こうなったら良い機会だから話し合うわよ。お父さんともお兄ちゃんとも」
いつになく真剣に話すのを聞きながら、母親って大変だなぁと他人事のように思う。
「どういう結果になるかわからないけど、とりあえず家の中が治まるまで、瞬太はこうちゃんの家で待っててちょうだい」
「へ?」
こうちゃんとは父の弟で、俺の叔父にあたる人だ。母の幼なじみでもある。父が太一、叔父が光一なので、小さい頃は近所の人から、たっちゃん、こうちゃんと呼ばれて可愛がられていたらしい。こうちゃんはまだしも、今の父を見ていると、たっちゃんと呼ばれていたなんて想像ができない。
「なんで急にこうちゃんが出てくるんだよ。待っててって、どういうこと?」
「夏休み中は、こうちゃんの所に行っててほしいの。もう話はつけてあるから」
母が言うには、父も兄も、俺がいるとおかしな見栄が働いて、本音を言えないのだそうだ。
「二人とも優秀に見えるけど、あれでもいろいろとこじらせてるのよ。それに、こうちゃんは瞬太と似た境遇だから、あなたの気持ちもなんとなくわかってくれるかもしれない」
こうちゃんは数年前に離婚をして、今は一人暮らし。フリーでウェブデザインなどの仕事をしている。うちの歯科医院のホームページも、こうちゃんのデザインだ。わかりやすくて見やすいと評判で、初診の患者さんの多くはホームページからの予約らしい。
こうちゃんは朗らかな人だ。
兄を気遣い、針の筵のように生活するより、こうちゃんの世話になったほうがいいかもしれない。
「でも、こうちゃんって家で仕事してるんだろ? 俺がいたら困るんじゃないの?」
「ちょうど今、仕事が一段落して、のんびりしてるみたいなの。良い話し相手ができたって喜んでたから、行ってやってよ」
多少の不安があったが、ここは母の提案に従うことにした。ここまでくれば、もうおまかせである。
話がひと区切りついたところで、お通しとビールがやって来た。
「厄介な男二人を相手にしなきゃいけないんだから、私も鰻とビールでエネルギー貯えなきゃ。こうなったら改革よ。家庭内改革!」
勇ましいことを言いながら、ビールを胃の中に流し込んでいく。改革に挑む気合を感じる飲みっぷりだった。すぐさまビールを追加注文。鰻が到着するのを見越して冷酒を頼み、最後はその小瓶を上下に振って、一滴残らず飲み切っていた。
鰻は注文してから出てくるまでは長いが、いざ箸をつけるとあっという間だ。親子揃って早飯だったせいか、せっかくの鰻を三十分足らずで食い尽くしてしまった。
第4話につづく