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夢と鰻とオムライス 最終話

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「あら、お久しぶりねー。長いこと会わなかったから、瞬太、お母さんの顔、忘れちゃったんじゃない?」
 家に帰ると母が笑顔で、調子よくそう言った。思わず「どちら様ですか?」と返しそうになったが、それをやると延々と絡まれそうなのでやめておいた。
 そのかわり、

「父ちゃんが来るなんて聞いてないぞ」
 小声で訴えると、母はぺろりと舌を出した。
 どうやら俺と父を対話させることも、母の家庭内改革の一環だったらしい。俺は関係ないと思ってたのに、してやられた。
「兄ちゃんは?」
「予備校よ」
 大学受験そのものをやめるわけではないようだ。俺は「ふーん」と鼻を鳴らし、無関心を装った。
「ああこれ、勝沼のお土産」
 白ぶどうのジュースを母に差し出す。
「わー、高級ジュースだー! っていうか、大きいわね。冷蔵庫に入るかしら」
 母が重そうに一升瓶を抱える。

「なんだか随分と、いいところに泊まったらしいじゃないのー。こうちゃんに、ちゃんとお礼言わないと。ねえ、お父さん!」
 洗面所で顔を洗う父に母が声をかけた。ジャージャー水を流しながら、父が、ああ、と小さく返事をしている。
「……次は、あの兄弟を改革しなきゃね」
 母が俺に耳打ちした。
 もし二人が腹を割って話をするなら、恵梨子さんのことがいいきっかけになりそうだ。

「あ、洗濯物、あったら出してね。今、洗っちゃうから」
 リビングでバッグを開け、まだ洗っていない服を出す。キッチンから戻ってきた母がそれを受け取ると、
「あら? 瞬太、ここ赤くなってるわよ。何の染み?」
 旅先で着ていたTシャツを見せられた。下のほうが、赤黒い染みになっている。
「あ」
 こうちゃんと恵梨子さんを見かけたワインカーヴでの出来事を思い出す。確かあのとき、去っていく二人を追いかけようとして、木樽のふちにシャツが触れたのだ。
「あ、それは俺が洗うから  
 母からTシャツを取り返す。染みをじっと見るうちに、おや? と思う。あれからまだ一週間も経っていないのに、染みだけが長い時を経たようにくすんでいた。

「どうしたの? 見てたって汚れは落ちないわよ」
 母の笑う声にはっとする。あの日のことを考えるだけで、気が遠くなりそうだ。俺はひとまず洗面所へ向かい、洗面台に水を溜めた。
 ザーッという流水音を聞きながら、改めて染みを眺めてみる。生地の裏までワインが染みて、かちかちに乾いていた。
 洗剤をつけて揉み込んでも、すぐには落ちないかもしれない。
 そう思ってTシャツを沈めると、染みはあっけなく水に溶け、夢のように消えてしまった。

 Tシャツをベランダに干して部屋に戻る。
「暑っ!」
 すぐさま、エアコンのスイッチを入れた。久しぶりに電気が走って、エアコンもびっくりしたのだろう。鈍い音を立てながら、生ぬるい風を送り始めた。

 こうちゃんの家も快適だったが、やはり自分の部屋はほっとするものだ。長い付き合いの本棚や勉強机が、「おかえり」とでも言っているように見える。
 久々に自分のベッドにごろんと寝転ぶ。
 見慣れた天井。布団から上がってくる自分の匂い。肌を撫でるエアコンの風が気持ちいい。あって当たり前だったものが、今はしみじみありがたい。
「ふぁ〜あ」
 これでもかと口を開け、あくびをする。目尻に涙がじわりと溜まると、瞼が途端に重たくなった。

 目を開けると、既に辺りは暗かった。
 時計を見ると、午前一時を回っている。どうやら俺は、夕飯も食べずに熟睡していたらしい。
 腹が減ってキッチンに行くと、母が冷蔵庫を開けて麦茶を飲んでいた。
 こちらを見て、にかっと笑う。

「あら、やっと起きて来たわね。死んだみたいに眠ってたわよ」
「まだ起きてたの?」
「暑くて寝つけなくってねー」
 そう言って、俺にも麦茶を入れてくれた。ありがたく受け取り、喉を潤す。

「夕飯のときに起こそうと思ってたんだけど、気持ちよさそうに眠ってたから、起こすのやめたの。それに、お兄ちゃんが話があるって言い出してね。まぁ、例によって瞬太がいないほうがいいかなって、思ったのよ」
「ふーん」
 以前母は、父親も兄も、俺がいるとおかしな見栄が働いて、本音を言えないなんて話していた。
「でね、お兄ちゃん、やっぱり歯学部受けることにしたって」
 コップに入った麦茶をぐびりと飲み干し、母は話を続ける。
「一度諦めたら、急に気が楽になって、改めて歯科医師になりたいって思うようになったんだってさ」
「へえ」
 父は嬉しかったに違いない。
「何か食べる? インスタントラーメンでも作ろうか?」
「いや、いい」
 俺が首を振ると母は寂しそうに口を尖らせた。

「……そっか、もう瞬太には、お母さんの手料理なんて必要ないもんね」
 拗ねている。
「なんだよ、それ」
「瞬太ったらさぁ、オムライス作れるらしいじゃないの。お父さんも褒めてたし、こうちゃんからも美味しかったって連絡来たわ」
「ふーん」
 口に合ったのなら良かった  。なんて思っていると、

「もうっ!」
 突然、母が地団駄を踏み出した。
「二人してずるいっ!」
「あ? 何が?」
 拳を固め、暴れ出しそうな勢いだ。
「ねぇ! お母さんにもオムライス作ってよ! 私だって可愛い息子が作ったオムライス食べたいもん。男たちばっかりずるい!」
 頼むから、夜中の一時にごねるのはやめてくれ。
「あー、わかったわかった。今度作るよ」
 なだめるように言うと、
「絶対よ。約束だからね! ほら、指切り!」
 母が小指を突き出した。俺は渋い顔をする。
「えぇー、子供じゃないんだから、やめてくれよぉー」
 本当に勘弁してほしい。
「はぁ? お父さんとお母さんにとってはね、いくつになったって、あんたたちは子供なの! ほら、いいから、早く!」
 この人には敵わない。やむなく小指を差し出すと、
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のぉーます。指切った!」
 結んだ小指をぶんぶん振って、母は子供みたいにはしゃいでいた。
 ……俺は一体、夜中の一時に何をしているのだろう。

「いい? 一週間以内に作ってもらうからね! さもないと針千本買ってくるわよ!」
「はいはい」
 まるで、脅迫だ。
「あー、楽しみ! もし、私より上手だったら、もうお料理は瞬太に任せちゃおうかしらー。そうなったら、毎日楽できるわぁー」
「ええ! 毎日?」
 うろたえる。
「あら、私は毎日やってんのよ。育ち盛りの子供と夫。献立考えるだけでも大変なんだから」
 確かに、毎日となると大変だ。
「でもね、瞬太のオムライス食べて、お父さん感化されたみたい」
「え?」
 母がふふふと笑う。
「『俺も、料理できるようにならなきゃな』だって」
「ふーん」
「『この際だから、瞬太に教わろうかな』だって」
 ぎょっとする。

「いいわねぇ。我が家の男たちが料理の達人になって、お母さんに毎日料理を振舞ってくれるの。毎日が母の日よぉ! あー、考えただけで、興奮しちゃう!」
 勝手に想像して、身悶えている。
「そんなことしてると、余計に眠れなくなるぞ」
「あ、そうだったわ。診療もあるし、もう寝なきゃ」
 我に返った母が、キッチンを去ろうとしたとき、
「あ、そうそう」
 廊下から、ひょいと顔を覗かせた。
「今度はなんだよ?」
「大事なこと言うの忘れてたわ。冷蔵庫にね、プリンが一個残ってるわよ」
「え?」
 母がにやりと笑う。
「じゃあ、おやすみー」
 片手をひらひら振りながら、母は寝室に戻っていった。

 冷蔵庫にプリンが残っているなんて、にわかには信じがたい。
 浪人生になり、兄が傍若無人に振舞うようになってからというもの、プリンと名のつくものは全て、兄に食い尽くされるのが当たり前になっていた。
 俺は内心疑りながら、冷蔵庫を開けてみる。

  マジか」
 そこには、目に付くように、堂々とプリンが残されていた。
 予想外の光景に驚いた後、俺は「あ」と声を上げた。
 子供の頃、兄弟喧嘩をすると、謝る代わりに兄がプリンを譲ってくれたのを思い出したのだ。
 兄は昔から「ごめん」と言えない、世話の焼けるやつだった。
 残念ながら、今もそれは変わらないらしい。
 きっと、兄なりに五百円玉の件を悪いと思っているのだろう。母もそれがわかっていて、わざわざ俺にプリンがあることを告げたのだ。 

 適当な皿とスプーンを用意し、俺は冷蔵庫からプリンを取り出す。蓋を剥がし、底のつまみを折ると、プリンがぷるんと皿に乗った。
 本当は面と向かって謝ってほしいところだが、ここはひとつ、寛大な心で許してやろう。
「しょうがねえなぁ」
 俺は滑らかな表面をスプーンですくうと、プリンをひとさじ口に運んだ。



〈了〉


こちらのマガジンに全21話をまとめています。


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花丸恵
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