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お辞儀が前屈


「いくら自分の方がうんと年上だからって、
子供の担任の先生に馴れ馴れしく話すなんて信じられない!」

母がプンスコプンスコお怒りである。
保護者会で、自分よりうんと若い先生に対し、
なぁなぁでおしゃべりする保護者がいたようで、
そのことに対して母は大変憤慨していた。

「どんなに自分が年上だからって、相手は先生なのよ! 
自分の子供がお世話になる先生なの! 敬うのが当然でしょう。
そんなこともわからない人間が親やってるんだから
チャンチャラおかしいわよ。そんなバカなやつはねぇ、
豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえばいいのよ!!」

言葉尻がだんだん乱暴になっていく。
とうとう母は、豆腐の角を殺人犯にしたててしまった。
敬意と謙虚さがない人間がお気に召さない様子である。
言葉が汚い人も嫌いなくせに、怒りのあまり、本人自ら、
最高潮に悪い言葉「死んじまえ」が口をついて出てしまった。

私の目から見ても、母は礼儀を重んじる人だ。
礼儀とか礼節とか仁義とか、それはそれは大好物で、
「人間はこうあるべきだ」
を、プラカードに掲げて歩いているようなところがある。
子供の私からすれば、その「こうあるべき」を押し付けられ
息苦しい面も合ったが、母のそういう、やや行き過ぎたところが、
珍妙さに結びつく時もあり、何だかおかしみがあった。

高校時代、私が職員室で先生たちと話し込んでいた時、
担任の先生から、こんなことを言われたことがある。

「丸恵んとこのお母さんさぁ、お辞儀がすごいよなぁ」

すると他の先生たちまでが、担任の言葉に「そうそう!」と同調し、
職員室内がにわかに盛り上がりはじめた。
すごいお辞儀とはなんだろう。
母は一体、どんなアグレッシブなお辞儀を
先生たちに、お見舞いしてしまったのだろうか。
私は思わず固唾をのみ、何がすごいのかを尋ねると、

「いやぁ、もう角度がすごいんだよ」
「そう、手が床につくんじゃないかって思うよね」
「多分、分度器で図ったら90度は越えてる」
「あー確かに、90度は越えてるよ」
「あんまり丁寧だから、こっちが申し訳なくなっちゃうw」
「あそこまで丁寧なお辞儀するお母さんいないよねぇ」

先生たちの口から、出るわ出るわ、聞いている方は苦笑いである。
そんなに言うならやってみて下さい、と頼んだら、
担任が母のマネをしてくれた。

「花 丸恵の母でございます。
いつも娘がお世話になりまして有難うございます」

と言って、母のお辞儀を真似してくれた。
先生の言うように、もう完全に90度を越えており、ほぼ前屈だった。

母は少女時代、モダンバレエを習っていたことがあり、体は柔らかい。
そんな大昔に取った杵柄が、こんなお辞儀で発揮されようとは、
母にモダンバレエを教えた先生たちも思ってはいなかっただろう。

母の話題で盛り上がった職員室は、
「お前は愛されてるぞ。良かったな」
という話で終着した。さんざん人の親を面白がっておきながら、
いい話に持っていく先生たちに「なんだよぉ」と思いつつも、
まぁ、母は先生たちに概ね好かれてはいたようだ。

「花 丸恵の母でございます。
いつも娘がお世話になりまして有難うございます」

このセリフを、滑らかな名調子で言い回していた母の姿が
容易に想像がつく。
そういえば、母が入院していた時、
昨年亡くなくなった祖母も、担当医の先生に

「娘が大変お世話になりまして有難うございます。
娘をどうぞよろしくお願い致します」

と滑らかな名調子で言い放ち、90度以上の角度でお辞儀をしていた。
と、いうことは、祖母の母である私の曾祖母、タケの時代から、
こういう寸劇のような挨拶をやっていた可能性がある。
これはおそらく、我が家の伝統芸なのだろう。

私は、そんな伝統芸を受け継ぐ機会もなく、
日々、普通に暮らしている。

そんなふうに、この話を終えるつもりであったが、
そういえば以前、急用があり夫の職場に電話をした際、
私は、無意識に

「お忙しいところ申し訳ございません。〇〇の家内でございます。
いつも主人が大変お世話になりまして有難うございます」

と名調子が口をついて出たうえ、電話にもかかわらず、
お辞儀の角度が90度を越えていたことを思い出した。
血というものは何と濃く、恐ろしいものであろうか。
我が家の伝統芸、「お辞儀が前屈」は、
私にもしっかり受け継がれてしまったのである。




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花丸恵
お読み頂き、本当に有難うございました!