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スーパーで豆腐を落とした話
「あ」
と声を上げたときには、もう遅かった。
3個入りパックの豆腐が私の手から滑り落ち、固い床に落ちてしまったのだ。慌てて拾い上げると、1つのパックから、うっすら豆腐が漏れ出ている。
あーあ、やっちゃった。
周囲の目がそう言っているのが聞こえるようだった。
消え入るような羞恥心を感じつつ、私は落としてしまった豆腐をレジカゴに入れた。
落下の衝撃で、豆腐は開封してしまったが、端っこからほんの少し、豆腐が漏れる程度で済んだ。買って帰ってすぐに食べれば問題ない。
しかし、だからといって、
「あー、よかった」
と、素直に思えなかった。
こういうとき、私はつくづく、自分の器の小ささを実感してしまう。
「中身も飛び散ってないし、まだ、食べられる! 良かったー」
そう思えれば、この出来事も「不幸中の幸い」となる。何があっても、「不幸中の幸い」と捉えられる人は強いものだ。でも、咄嗟にそう思えるほど、私は人間ができていなかった。
まだまだ修行が足りんなぁ……。
そう思いながら、私はため息交じりにレジへと向かう。店員さんが、レジカゴに入ったバラバラの豆腐を見て、おや? という顔をした。
「さっき売り場の前で落としちゃったんです……」
いたずらがバレてしまった子どものように肩を落とすと、店員さんは「新しいものに交換します」と申し出てくれた。
しかし、わざとではないとはいえ、自分の不注意が招いたことだ。私は店員さんの申し出を丁重に断った。
しかし、店員さんは、
「そんな、お気になさらないでください。大丈夫ですから」
と笑顔を向ける。
「いやいや、でも、私の不注意なので」
そう言う私に構わず、店員さんは豆腐を新しいものに交換してくれた。
これ以上断るのも意固地というものだ。
私は何度も頭を下げ、店員さんの親切にお礼をいい、きれいな豆腐を自宅に持ち帰った。
良くしていただいた。
そう思い、温かい気持ちになりつつも、私は自分自身の胸に手を当てる。
この日利用したスーパーは西友だった。
最近、自分で会計を行うセルフレジが主流になりつつある。支払いだけがセルフのスタイルも多いが、私が利用する西友のセルフレジは、自分でバーコードをかざして、会計するタイプの完全セルフだ。
もし、本当に落とした豆腐を買おうと思っていたなら、セルフレジで会計すればいい。そうすれば店員さんに知られることなく、自分の不注意を自分自身で処理できたはずだ。
それなのに私は、わざわざ店員さんのいるレジに向かった。
交換してもらえるかもしれない。そんな期待がなかったと言えば嘘になる。セルフレジを使わなかったのは、どう考えても、そういう期待があったからだ。
お店は客の不注意であったとしても、サービスの一環として商品を交換してくれるのだろう。だが、胸の奥でひっそりと、そのサービスを期待することは、やはり、浅ましいことだ。
こういう後悔を「まぁ、仕方がない」と誤魔化し続ければ、私の心根を支えている、自分なりの正しさを見失うことになる。
この場合、私にとっての正解は、何も言わず、セルフレジに向かうことだった。それが私が求める、私の姿だ。このとき私は、自分に恥ずかしいことをしてしまったと後悔した。
こういうときの判断は、人に押し付けるものではない。
誰かに自分の正しさを押し付けることは「善」ではない。むしろ「悪」ですらあると思う。
ごめんなさい、と謝って交換してもらうことが、決して悪いわけではなく、ただ私は、交換を期待した、自分自身の気持ちが許せなかったのだ。
結局、正しさというものは、自分自身がそれを許せるか、許せないかを選び取ることなのだと思う。
セルフレジを使えば、お店に損をさせることはなかった。私は咄嗟に、自分が損をすることよりも、お店が損をすることを選んでしまった。
私が落とした豆腐はどうなるのだろう。
あのまま、捨てられてしまうのだろうか。
後ろめたさが胸を覆い、ブチュっと漏れた豆腐の白さが、私の目の裏にちらついた。
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