わかって下さい。
自分の思いをわかってほしい。人にはそんなときがある。
かつて、昭和のフォークソングで、書いた手紙の文字が、
涙でにじんでいたなら、わかって下さい
と歌う曲があった。AMラジオを聴いていると、たまにこういった懐かしの名曲を耳にすることがある。別れた人を想って歌うフォークソングは、今聴いても切ない響きを感じるものだ。
手紙の文字が涙でにじむなど、令和の世には考えられないことかもしれない。想いを胸に、瞳を潤ませながら、スマホで文字を入力しても、ポトリと落ちた涙の気配は、離れた想い人には届かない。にじむのは、自分のスマホの画面ばかりである。考えてみれば、現代の方が余程、想いをわかってもらえない、そんな切なさがあるような気もしてくる。
つい先日のこと。
そんな切ない令和の世を生きる私にも、わかってほしい、と思う出来事が起きた。
その日、頂き物の麺つゆが、とうとう底をついた。最近多くがペットボトル容器になり、瓶入りのものは、少なくなったが、その麺つゆは有名蕎麦屋特製の瓶入り。普段使うものよりも高級品だった。
瓶容器というだけで、味も口当たり優しく感じるから不思議だ。ビールもコーラも、何故か瓶のほうが美味しく感じるのは私だけであろうか。
ビールやコーラなら栓抜きで開けてしまえば、飲み終えたあと、そのまま洗ってリサイクルに出せるが、瓶の麺つゆはそうはいかない。保存しやすいように、蓋が簡単に開閉できるプラスチックの注ぎ口がついているからだ。使っている最中は便利なのだが、これが捨てるときになると、なかなか厄介だ。
分別しやすいように、外しやすく加工されているものもあるが、それでも、力加減を誤ると、蓋の部分だけが切れてしまい、プラスチック部分を瓶から外すことができない。家事をする際、イライラポイントにあげられる作業の一つだ。
私は、麺つゆの瓶の注ぎ口を取り外そうとした。しかし、うまく外れず、蓋の部分が切れた。まぁ、よくあることだ。こういうときは慌てず騒がず、キッチンバサミを使って取り外せばいい。私は注ぎ口にハサミの刃先を入れ、プラスチック製部分を浮き上がらせようと、グリグリと動かした。だが、ピクリともしない。
「あんた、手強いわねぇ」
私は瓶に向かってそう話しかけ、気合いの腕をまくりをした。こっちがダメならあっちから、というように、私は四方八方の注ぎ口にハサミをかませ、グリグリグリグリ、力を入れてプラスチック部分を外そうた試みた。しかし、微動だにしない。
「あんたたち、随分と仲がいいのね」
この瓶とプラスチックの注ぎ口は、熱愛中なのではないかと思われるほどに、くっついて離れない。こっちは環境のためを思って外そうとしているのだが、こうしていると、徐々に、若い恋人同士を無理やり別れさせようとしている鬼ババァの気分になってくる。
格闘すること数分、鬼ババァはグッタリと力尽きた。ババァで駄目なら、うちのジジィ…いや、うちの夫にご登場願おう。
「こういうのはね、ドライバーがあれば、外れるんだよ」
そう言って、夫は大きなマイナスドライバーを手にやってきた。瓶を受け取ると、注ぎ口にかませ、テコの原理で外そうとする。
「う〜ん、う〜ん…」
夫が悶えている。なかなか外れない。近年稀に見る強情さである。そのうち、かませていたマイナスドライバーがプラスチック部分から、ガッ!と勢いよく外れてしまった。これは危ない。
「こりゃダメだ。これ以上やったら怪我するかも」
夫は降参した。しかし、なんだか悔しい。せっかくここまで時間を費やしたのだから、なんとか外したい。そう思い、更に頑張ってみたものの、瓶とプラスチックの絆は固く、私の手には負えなかった。
注ぎ口を見てみると、ボロボロである。
私もできるだけ環境に配慮した生活を送りたいとは思ってはいるが、注ぎ口と格闘した右手は真っ赤。乾燥し、あかぎれをしている手をこれ以上酷使すれば、それこそ血を見ることになるだろう。
瓶収集の当日。ゴミ集積場に、プラスチックの注ぎ口がついたままの瓶があったら、リサイクル業者さんを、ガッカリさせてしまうかもしれない。肩を落としながら、そんなことを思っていると、私の脳裏に、冒頭で語った、あのフォークの名曲がリフレインしはじめた。
懸命に分別を試みるため、私の手が血でにじむ寸前だったことなんて、リサイクル業者さんに、わかるはずもない。でもせめて、注ぎ口がボロボロになっているのを見たら…
そう言いたい気持ちである。