楽ちんの《ちん》とは何か
「楽ちんの《ちん》って何だろうね」
休日の昼下がり、夫がそんなことを言い出した。
聞いていたラジオ番組がショッピングのコーナーになり、
「これがあると、楽ちんですよ!」
そんな商品紹介をしていたらしい。
確かに、考えてみれば、
「これは楽ですよ!」
で意味は通じる。わざわざそこに《ちん》をつける必要はない。
Xなど文字制限のあるSNSが流行し、何でも略し、簡潔に伝えることが多くなっている昨今、わざわざ
「楽ですね」
で済むことを、文字数を増やしてまで
「楽ちんですね」
ということは、ある意味、時代に逆行しているのかもしれない。
「金八先生の言う、このバカちんがぁ! の《ちん》と楽ちんの《ちん》は、同じなのかね」
夫の質問は続く。
そんなことを訊かれても、私にはわからない。
ひょっとしたら珍品の《珍》かも知れないし、映画で中国の皇帝などが自分のことを指して使う、
「朕は、腹が減りたもうた」
の、《朕》かもしれない。
そういえば、他にも浮世絵などにも登場する犬種で、風に靡きそうな毛を持つ、《狆》という中国原産の小型犬もいる。
日本語は漢字を使う言葉なので、中国の影響があってもおかしくはない。《朕》や《狆》が、《楽ちん》や《バカちん》の語源になった可能性もある。
そんなことを思っていると、
「あっ! そういえば金払いの悪いケチな人のことを、渋ちんっていうよね。あの《ちん》と、楽ちんの《ちん》やバカちんの《ちん》も何か関係があるのかな」
酷使される電子レンジのような勢いで、夫が《ちん》を連発している。
私が、朕だの狆だのと考えているうちに、夫の質問の幅が広がってしまった。もうこうなったらインターネットの力を借りるしかない。
早速検索にかけてみると、すぐにMBSアナウンサーの公式チャンネル「ウラオモテレビ」というyoutubeチャンネルに行き当たった。そのものズバリ、
「楽ちん」の「ちん」ってなに!?
というタイトルの動画である。
動画に登場する、京都先端科学大学で日本語の語源を研究している丸田博之教授によると、《ちん》の歴史は長く、なんと平安時代から使われていたとのこと。
元々は、花や鳥などの《小さいもの》を指して《ちん》といったそうだ。《小さい》を意味する《ちん》が、《小さくて大したことがない》という意味でも使われるようになり、渋ちんの《ちん》が生まれたらしい。
人を揶揄するときに語尾につけられる《ちん》は、《小さい》を意味する《ちん》が語源とみていいようだ。
そして江戸時代になると、この《小さい》を意味する《ちん》に、《かわいい》というイメージがつくようになった。
それはなぜか。
四代目将軍・綱吉のときに、犬の《狆》が大流行したからだ。
私が先ほど述べた《狆》がここで登場したことに、思わず鼻息が荒くなった。我ながら勘が冴えている。
それまで日本犬といえば、秋田犬、土佐犬などの大きい犬種が多かった。猫ほどの小さい犬、狆の登場は、江戸の人の目にかわいらしく映ったのだろう。
しかも、《狆》という漢字は和製漢字で、猫と犬の中間の大きさという意味で、《狆》と書かれるようになったそうだ。
ちなみに、チンアナゴの《チン》は、顔が犬の狆に似ているから、そう呼ばれるようになったらしい。
いやぁ、勉強になったなぁ……。
そう思って、危うくパソコンを閉じそうになったが、そもそも夫が知りたがったのは、楽ちんの《ちん》である。
丸田教授によると、楽ちんの《ちん》は歴史が浅いせいで、かえって語源を辿るのが難しいらしい。
えー! 《楽ちん》のほうは解明できないのかぁ……。
と思っていると、なんと動画には後編があった。
小学館の日本国語辞典第二版によると、1955年(昭和30年)に源氏鶏太の小説「天下泰平」に《楽ちん》という言葉が登場している、とある。
だが、これが語源というわけではないらしい。
さらに調べていくと、1937年(昭和12年)の新聞広告に「楽枕(らくちん)」という商品があることがわかった。
ちなみに、《枕》の音読みは《ちん》である。
ただ、現在使われる意味での楽ちんの語源が、この枕であるかどうかを決定づけることはできないらしい。解明まであと一歩、といったところだったが、謎を残したまま動画は終わった。
面白いなぁと思ったのは、歴史の浅い言葉ほどわからないことが多く、謎が深いということだ。
まさに、《楽ちん》の《ちん》を調べるのは楽ではない。
もし仮に、この「楽枕(らくちん)」という名の枕が、楽ちんの語源だったとしたら、楽ちんの《ちん》と、渋ちん《ちん》とは語源が違う、ということになる。丹念に調べていけば、双方の《ちん》の語源は同じだった、なんて可能性もゼロとは言えない。
「あなたはどう思う? 楽ちんと渋ちん、語源は同じだと思う?」
夫に訊くと、すでに興味を失っていたようで、
「わからんちん」
ろくに考えもせず、そう答えた。
参考資料