夢と鰻とオムライス 第20話
「おじいちゃんが、ああなったのには理由があるんだ」
「理由って?」
父がこれまで祖父を悪く言っているのを聞いたことがない。そんな父の口から、ああなった、なんて言葉が出ることが意外だった。
「おじいちゃんは昔から脚が悪かっただろう? 憶えてるか?」
「うん」
祖父が上半身を人よりも大きく揺らし、左足を庇うように歩いていたのを思い出す。
「おじいちゃんの足の悪いのは生まれつきなんだ。今なら病院に行けば直せたんだろうが、兄弟が多かったせいで、そこまで気にかけてもらえなかった。脚が悪いと、動きも鈍い。兄弟で遊んでても、うまく走れない。父親や兄弟は、おじいちゃんのそんな姿を見て、事ある毎にからかった。それでも母親だけは庇ってくれたらしいけどな」
祖父が家族に邪険にされていたなんて、想像もつかない。
「おじいちゃんは脚が不自由な分、勉強して家族を見返しそうとした。大学に行きたかったが、兄弟が多いから金がない。元々、家庭環境もよくなかったんだ。そんなとき、東京で会社をやっていた母方の親戚が、もっと勉強して歯科医になれって言って、こっそり学費を援助してくれたんだ。父親や兄弟には『東京で就職する』って嘘ついて、おじいちゃんは逃げるように上京した」
知らなかった。思いがけない話に前のめりになる。
「でも、歯科医師になったって知って嬉しかったんだろうな。母親がつい、『息子が歯医者になった』って近所で自慢したんだ。父親や兄弟に居場所を知られて、おじいちゃんは、金の無心をされるようになった。ひがみもあったんだろうな。散々だったらしい」
「最悪……」
父は、半分ほど食べ進めた鰻を放置したまま話し続けた。
「歯科医院を建てるには、設備に相当な金がかかる。返ってくる当てのない金を都合する余裕なんてない。だから、おじいちゃんは、自分の夢のために勤め先も住所も全て変えて、家族と絶縁した」
そういった経験のない者からしたら途方もない話だ。五百円玉程度で家を出た自分が、なんだかちっちゃく思えてくる。
「念願叶って歯科医院も建てて、おばあちゃんと結婚もした。俺が生まれるとき、母親にだけはこっそり連絡先を教えようか迷ったらしいけど、そこから足がつくのを恐れて、結局連絡しなかった。おじいちゃんは母親の死に目にも会えてないんだ」
話しながら父がテーブルの上に人差し指を置いた。
「実は、俺たち兄弟の名前に《一》がつくのはな、おじいちゃんの母親の《いち子》っていう名前からもらってるんだ」
太一
光一
と、指先で名前を書いてみせる。
「自分の母親に孫の顔を見せることができなかった、せめてもの罪滅ぼしだって、鰻を食いながら話してたのを思い出すよ」
祖父の半生を聞きながら、俺はうねるような時の流れを感じていた。母親との縁を切ってまで、あの歯科医院を建てた祖父。長い年月の中で祖父の心にもたらしたであろう葛藤が、胸に迫ってくるような気がした。
「そこまでして建てた歯科医院だからな……おじいちゃんにとっては、かけがえのないものなんだ。だからそれを、自分と同じくらい大切に思ってくれることを、家族にも求めた。光一にはそれが息苦しかったと思う」
「父ちゃんは、おじいちゃんのそういうところ、嫌じゃなかったの?」
父のことを《父ちゃん》と呼んだのは久しぶりだった。言った後になってそれに気づき、急に恥ずかしくなる。
「そりゃあ、プレッシャーはあったよ。でもそれと同じくらい、歯科医師として働くおじいちゃんがかっこよくも見えた。小さい子が治療に来るとさ、おじいちゃん、すごくやさしい顔をするんだ」
父の顔がほころぶ。
「子供の頃、『ぼくも歯医者さんになりたい』って言うと、おじいちゃんは俺にも、あの顔をしてくれた。昔はその顔見たさに『歯医者になる』って、言ってたところもあったかな……」
瞬太は将来、何になりたいんだ。
祖父の弾むような声がよみがえる。確か、俺はあのとき《歯医者さん》とは言わなかった。なんて言ったかは憶えていない。だがきっと、祖父の意に沿わないことを口にしたのだろう。考えてみれば、この日を境に、祖父が俺に冷たくなったような気がする。
あのとき、俺は嘘でも兄のように「歯医者さん!」と答えればよかったのだろうか。
いや、違う。
誰かに好かれようと嘘をつくことは、自分を蔑ろにすることだ。嘘をついて自分を傷つけるくらいなら、俺は嘘をつかないほうを選びたい。
「俺はずっと、おじいちゃんに嫌われてると思って傷ついてきたけど、別に好かれなくてもよかったんだね。悲しかったけど、これでよかった」
「え?」
脈略のない俺の言葉に、父が訝しげな視線を向ける。
祖父の態度に傷ついてきたが、それでも俺は自分を守った。俺はそれを誇っていい。
そう思ったとき、腹の底からあたたかいものが湧き上がるのを感じた。口の端がふわふわと、羽毛に撫でられたみたいに軽くなる。気づけば俺は、父に向って微笑んでいた。
「だってさ、おじいちゃんに好かれたいだけで、嘘ついて『歯医者さんになりたい』なんて言ったら、それこそ一生懸命やってきたおじいちゃんに失礼だろう? 患者さんだって、そんな人に歯を削られたくないよ」
父は、驚いたように目を見開く。
それから少しの間、父は遠い目をして窓の外を眺めていた。自分は嘘をついていなかったか、回想しているような眼差しだった。
外から、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。自転車に乗っているのだろうか。高い周波数の音はすぐさま遠くなり、部屋に静かな空気が戻ってきた。
「……実はな、二週間くらい前に、慶太が歯学部の受験をやめるって言い出したんだ」
「え?」
最後のひとくちを掻き集めていた箸が止まる。
「たぶん、おじいちゃんが生きてたら、諦めるなって説得しただろうな……。でも、もうおじいちゃんもおばあちゃんもいない。俺の代で閉院したって文句言う人なんていないんだ。そう思ったら、すんなり許せたな。……いや、慶太の人生なのに、許すも許さないもないんだけどさ」
父親の肩がひと回り小さくなった気がして胸が詰まる。
「歯医者になるために苦しんでる慶太を見てると、昔の自分を見てるみたいでな。だからつい、慶太の肩を持つようなことを言ってしまった……」
父はうつむく。視線の先にある鰻は、まだ半分残ったままになっている。
「お母さんに言われたよ。『私たちの子供は慶太だけじゃない。あなたも私も、あの子のやさしさに甘えすぎている』って。そのとき、唇を噛んだ光一の顔を思い出した。あいつもやさしかったからな……」
父は深いため息をついた。
「心のどこかで、俺は跡取りの自分は優遇されて当然だと思ってたんだ。正直言えば、優越感もあった。だから俺は、親父と同じことをしたんだと思う。最低だな……」
最低だよ。 でも、最低なだけじゃない。
「あのさ……」
「ん?」
「でも、鰻、食えなくなったじゃん」
「え?」
好きだった鰻が食べられなくなる。父がそんな思いを抱えていたのは本当のことだ。
「……それだって、ある意味、やさしさみたいなもんじゃないの?」
人の心って、いつだって複雑になりがちなんだ。優越感と罪悪感が、心の中で同居することだってある。
俺の心の中に、父親を遠ざけたい気持ちと、一緒にいたいという気持ちが同居しているように 。
「信じてもらえないかもしれないけれど……」
父は少し、くぐもった声を出した。
「……お父さんは瞬太のこと、慶太と同じように大事に思っているし、これからも元気に暮らしてほしいと思っている。幸せになってほしいと思っているんだ。信じてもらえないかもしれないけど、俺は本当に、そう思ってるから……」
その一言を聞いたとき、カレーの鍋を掻き混ぜていた、母の後姿が浮かんできた。父の白いランドクルーザーを傷つけた夏の日。あのときの俺に、今の言葉を聞かせてやりたい。
残っていた最後のひとくちを掻き込む。空になった折詰の中に箸を置き、俺はペットボトルの緑茶をぐいっと飲み干した。
「鰻、旨かったよ」
御馳走様、と手を合わせる。
父はそんな俺の顔を見てまた、うん、と頷いた。
最終話につづく