きみはまたりんごの木を植える


マルティン・ルターの言葉に「明日世界が滅ぼうとも、私はりんごの木を植える」という言葉があります。


この言葉は、私の人生でどうしようもないとき、何でもない日、さまざまな時々に脳裏に思い出される言葉だ。


この言葉についての解釈はさまざまな人がしているが、私は、「人が成し遂げたこと自体にさほど大きな意味はなく、残り続けるのは何かをしようとした人がいるのみ」ということである。

りんごの木は、たしかに数年もすれば大きな実りを与えるだろう。しかし、それは享受する人間あってこその実りである。


この一文では、明日世界が滅んでしまうのである。そこに享受するものはおらず、誰が植えたかもわからない、なんの意図があってこの木を植えたのかわからず、水をあげる人も、手入れする人も居ない木が存在するのみである。

事実、何かを成し遂げたい人間が評価されるのはその人が死した後であることも、少なくはない。

その人自身がその栄光や、絶賛を受け取ることは無いのかもしれない。


ただ、そこで何かをした人は居たのだ。確かにそこで何かを思い、何かを託し、何かを成し遂げた人がいたのだ。

人生の価値とはすなわち、自己満足に過ぎないのかもしれない。


少なからず、誰かが誰かに思いを馳せることが出来る人間という思慮の深さに、私は何も感じずにはいられないのだ。

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なんとなく
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