いい時間とお酒
日本中の誰もが最下層のド田舎だと認める、とある地方都市に、お気に入りの小さなバーがある。
雑居ビルの1階で路面に接する入り口には庇もなく、およそ何かの物置でもあるかのように、一見ではそれとわからないブロンズ色の無機質なドアが一枚。
その左手の壁には控え目に店名が刻印されており、頭上に設置された味のある緑青のランプによっておぼろな影がつくられている。
ドアを開けるとすぐ左手にはS字にカーブするマホガニー色の木製カウンターがあり、目前には小さな4人掛けのテーブルとハイチェア。薄暗い店内は、客が10人も入れば満員御礼というくらいの、すこぶる小さな造りだが、カウンター内の背面棚には天井までうず高く酒のボトルが積み上げられていて、それらをひとつひとつ眺めているだけでも趣深い。
そんな取り立てて飾りもない店内の、いちばん奥のつきあたりの壁には、グスタフ・クリムトの名画『接吻』の小さなレプリカがひとつ、ウォールライトで照らされている。
ぜんたい私は昔からこの絵が好きである。この店を教えてくれた知人が、店内にこの絵があることをわざわざ教えてくれたほど。単純な私はそれもあって、以来、いきつけのバーにしているというわけ。
さて、この店の主(あるじ)は壮年の男性マスター。ここを贔屓としている理由のひとつが、このマスターの接客というか、その人柄でもある。
つかず、離れず、でしゃばらず、絶妙な間合いで、なんとも心地がいい。この素朴な佇まいの店の主は、こうもあろうかと頷ける。
給仕の所作やバーテンダーとしての腕前は言うまでもなくスマートであるし、豊富な酒の知識は勿論のこと、料理の腕もなかなかのもの。日替りで洒落たつまみや小料理をさらりと供し、スイーツには産地を厳選した旬のフルーツ、夫人手製のケーキなどもメニューにあがる。おまけに事前に頼めば常連限定でコース料理まで振る舞うという。
この店で流れるゆったりとした時間の、いったいなんと心地よいことか。アルコールには強い方ではないくせに、つい調子にノッて杯がすすんでしまう。
マスターとの掛け合い、ちょっと背伸びをして注文した酒の数々、気の効いたつまみ。明日は休み。世の喧騒や週明けの仕事、時計の針さえ忘れて、いい時間と酒に酔いしれている。