その後、俺たちは
部屋の片付けをしていたら、日記が出てきた。
『28歳だ。
今の私の歳だ。
いつも何かと闘って生きてきたつもりでいたけど、そんなことはなかったようだ。
風邪を引いている。
毎年11月か12月には風邪を引く。
風邪を引くと色々なことを考える。
この靄のかかったような感覚はいつ拭えるのか、何が悪かったのか、そういえば、さっき返したメールの内容はどっか違うんじゃないか、本で読んだ「自分に嘘をつかない」という状態とは一体どういうものか、など。
どれもほとんど答えが出ないまま、終わる。
眠るからだ。
そして、寝て起きると、大概忘れていて、また一から考え直す。
繰り返しの中にいる、と思う。
考え事のループ、毎年同じ時期に風邪を引くループ。
咳が出る。
また、忘れてしまう。
どこか遠くへ行きたいと思う。
咳が出る。
また、忘れてしまう。
悲しくなる。
眠る。
また、忘れてしまう。
繰り返しの中にいる。
人魚と出会って別れてから、いつも、同じだ。』
1頁しか書いていなかった。
今なら書けるだろうか、と思ったが、間を開けずに無理だという言葉がやってきて、頁を閉じて押入れの上の奥の方にしまった。
手紙が来た。書き出しはいつもこうだ。
「お元気ですか?」
至って普通だ。
変わったことはない。
彼女はいつも、何か云いたいことがあるようなのだが、それに辿り着くことはないという。
一度2人で食事に行き、お茶をしたことがあるが、彼女は最後にこう云った。
「もう、会うのはやめましょう。」
「どうして?」
「手紙を書いている方が、まだ云いたいことが云えている気がするわ。」
銀座はもうほとんどの店が閉まっていて、酔っ払った会社帰りの集団だとか、まだ知り合って間もない (口調がやけに敬語だった。)カップルだとかが、そこここにふらふらといる中を2人で歩いていた。
ほとんど会話をすることなく、野菜蒸しが美味いという携帯で見つけたその店で食事をした。何となく別れがたくて、コーヒーを、と誘い、椿屋珈琲店でコーヒーを飲んだが、やはりほとんど会話をすることはなかった。
俺は寝てみたい、と思うか、
半ば試す気持ちで彼女に会ったのだった。
上手くいけば今夜寝れるかも、ではない。
寝てみたい、と思うかどうかを知りたかった。
霊の存在など信じることはないが、人魚となら寝たことがあった。
誰に云ったこともないので、誰もそのことを知らないが、そういう経験がある。
人魚と寝てからは、街行く人を見たり、電車の中で口を開けて眠りこけている人を見たりすると、「ああ。誰も知らない、この人だけが知っている何か、を持っているのかもしれない。」と思うようになった。
別に今までも人を肉の塊だ、とか、血が通っているかどうか確かめずにはいられない、とか思ったことは一度もないのだが、何となく世界が深くなったような気がした。
目に見えない人の奥行を、ぼんやりと考えるようになった。
「トキくんはホモなの?」
件の店で、彼女は野菜蒸しの中から真っ黄色のキノコを取ってポン酢に付けながら、俺にそう訊いた。
「いいえ。」
「そう。ホモかと思った。」
彼女は少し残念そうに云った。
「ホモだったらよかった?」
彼女は少し考えてから答えた。
「ううん。でも、寝てみたい、とちょっと思えるかもと思ったのに全然その気がなさそうだから。」
「…ごめんね。」
何でここで謝るんだ、俺。
自分の莫迦さが厭になった。
彼女とは、春の日曜日、近所の広い公園でプレミアムロールケーキをほうばっていた時に再開した。
「手紙を書いてもいい?」
近況を聞き合った後に彼女はそう云った。
「いいよ。」
俺はそう答えた。
「返事を送ってくれる?」
「うーん。それは、わかんないな。」
彼女は笑った。
「トキくんは、正直だね。」
そして、云った。
「何も書かない葉書を送ってくれるだけでもいいの。」
「それならいいよ。」
高校の時、
彼女はいつも
窓際の一番後ろの席に座っていた。
窓際の一番後ろの席、というのは何だか妙に特別感がある、と思うのは少女漫画の読み過ぎだろうか。(姉の本棚にあるのをよく拝借していたのだ。)
彼女はその当時、とても暗くて、その暗さが自分のことなんかどうなってもいいというやさぐれさ加減に通じていて、いつでもやらせてくれそうなムードをたたえていた。
大学のサークルを渡り歩いていたら、演劇サークルや軽音サークルにそういう女子がたくさんいたが、本物だな、と思ったのは彼女だけだ。
何が本物なのか、いまいちわからないが、
そのやさぐれた加減というのが一番自分に合っていたのだろうと思う。
俺はといえば、教室の真ん中あたりに座っていた。
ちょうど真ん中ではない。
少しずれたあたりだ。
そこから何となく振り向いて彼女を見たり、トイレから帰って来て見たり、昼休みの時に見たり、帰りがけに見たりしていたことを覚えている。
好きだったのかもしれない。
かもしれない、というのは、人魚と寝てから全ての「好き」という感情から遠くなってしまい、思い出せなくなったからだ。
人魚には根こそぎ、性欲や男女間に芽生える何か浮つくような楽しい気持ちを、持っていかれてしまった。
あの、夢のように気持ちの良い穴の中に、
全部吸い取られてしまったのだと思う。
彼女は東京の大学へ行ったと、人づてに聞いていた。
俺は、東京の大学へ行くなんて意外と普通だな、と思った。
関東圏なので、近所みたいなものだ。
彼女には何か、
例えば京都の大学へ行ったとか、
金沢の大学へ行ったとか、
そういう雪が色々閉ざして、
春が来てもその閉ざされた感じが
真には抜けないような美しい場所に行く
みたいなことをして欲しい、
と勝手に思っていた。
そして、俺自身は、普通に東京の大学へ行った。
『お元気ですか?
この間トキくんと会って、とてもびっくりしました。
高校の時とまるで印象が違ったからです。
男の人は本当にとても変わってしまうんですね。
トキくんと会ってから、電車に乗っているスーツを着てくたびれた感じのおじさんたちを見て「この人たちにも高校生だった頃があって、中学生だった頃もあって、果ては小学生・幼稚園、赤ちゃんだった頃もあるのか」と切実に思うようになりました。
何がトキくんを変えたのか、少し知りたい気持ちです。』
『人魚と寝たからです』
と、一文だけ葉書に書いて返信した。
その時に、何となく、
本当のことだけを書こう、
と思った。
かっこをつけるのではなく、
つまらない時はつまらないと書き、
疲れた時は疲れたと書く。
意外と難しい。続けてみて初めて知った。
嘘をつく方がよほど簡単だ。
何故なら、会話やメールはほとんど全てを愛想だけでしていたからだ。
気づくのにかなりの時間がかかった。
人魚とは水族館で出会った。
まぐろのでっかい回遊水槽を1人で見に行った。
2駅先の近所にあるから行きやすいのだ。
水槽の前にはまぐろを見る為だけに階段席が出来ている。
ちょうど真ん中あたりの席でまぐろを見ていた。
まぐろは青い水槽の中をひたすらぐるぐると泳ぎ回っていて、時間が止まっているのか、もしくはものすごく速く進んでいるのか、どちらかわからなくなるほどだった。
それをこちらもひたすらぼぅっと見ているのだ。
本当の暇人にしか出来ない技だ。
じっとそこにいるとわかる。
人は次に進みたがる。
じっとしていることが出来るのはせいぜい10分くらいだ。
人魚は俺と同じくらいそこで暇そうにしていた。
入れ替わり立ち替わり人がやってくる。
子供連れの家族や、友達同士で来たのや、もちろんカップルだ。
バリエーションはそんなものだ。あと、係員。
人魚は階段を挟んで反対側の、かなり入り口に近い水槽から離れた座席に1人で座っていた。
一度トイレに行って戻って来てから、人魚に気付いて、2度目にトイレに行って戻って来たら、まだいたのだった。
1時間半くらい経っていた。
暇人は本当に暇なので、暇人を見つけるのがうまい。
声を掛けることにした。
成功率は6割だと踏んだ。
人魚は長いスカートを履いていた。
白い、透ける素材の、ふわふわひらひらしたスカートだった。
黒い髪はストレートで腰まであった。
近づいた時、人魚は俺を一瞥したが、
すぐに水槽に目を戻した。
「まぐろが好きなの?」
「…まぐろより肉の方がね、好き。」
人魚はこちらを見なかった。
答え方で声を掛けられ慣れていることがわかった。
負けるなぁ、と一瞬逃げ腰になったが、人魚の右手にしっかりと握られている物にびっくりして、妙に素直な気持ちで尋ねてしまった。
「何、持ってんの?」
「まごの手、知らないの?」
それがどうして必要なのかを知りたいというのを含んだ質問のつもりだった。
「これで、捕まえるのよ。」
人魚はにっこり笑って、云った。
「男。」
人魚はまごの手を握り直してこちらに向けた。
「引っかかった。」
「そんなことの為にわざわざ?幾つ?高校生?」
本当のことを言うとは思わなかったが、訊いてみた。
「150くらい。」
身長かと思ったが、続けられた。
「歳のことよ。」
人魚は名前を名乗らなかった。
携帯も持っていなかった。
財布もだ。(どうやって水族館に入ったのだろう。)
すわ家出少女かと思い、未成人と寝て訴えられたりするのが面倒だった俺は、理由をつけてその場を離れようとした。
「ご飯ぐらい食べても、いいんじゃない?」
人魚は俺にそう云った。
「肉食わせるほどの金がないよ。」
「マクドナルドも肉は肉よ。」
俺は今、マクドナルドに入ることができない。
食い過ぎたのかもしれないし、そもそもそんなにファーストフードが好きではないのだ。
油っぽい匂いも、胸ヤケする食後も苦手だ。
人魚は好きだった。
特にチキンナゲットが好きだった。
バーベキューソースのついた指を舐めとるほどだ。
もしかしたら今、
マクドナルドに入れないのは、
その指を舐めとっているところがかなり好きだったせいかもしれない。
そういうことを思い出すのさえ、
面倒なのかもしれない。
『お元気ですか?
今、目の前で女子高生のグループと男子高生のグループがそれぞれのテーブルで大きなポテトを分け合って食べていますが、お互いがお互いを意識しているのが分かりすぎて、おかしいです。
そして、そんなことを手紙に書いて共有しようとしたりしている自分も、そういう風に見られているだろうことを彼らが知らないってことも、とにかく、おかしいです。
少し酔っ払っています。
マクドナルドは夜中までやっているので、そこがとても好きです。
コーヒーもすぐ飲めるし。
スターバックスはすぐ閉まってしまうところが多くて困る。
昔、京都に行った時、三条のところにあるスターバックスに夜中までたくさんの若者が入っていて、楽しそうにお茶をしているのを見たことを思い出しました。
その時、私は上司と出張していて、(本当はそういう名目で。)近くのビルにあるイタリアンバーに行ったのですが、バーよりもスターバックスの方が良かった、と思ってしまって、自分がそんなにも子供だったことを知って閉まって、結局、その人とは駄目になってしまいました。
今でもバーよりスターバックスの方が好きなところをみると、それは子供っぽさではあるけど、成長ではなくて、私の本質だったのかも、と思います。
お酒が実はそんなに好きではないことに気付いたのは、いつだったか忘れてしまいました。
トキくんはお酒飲みですか?
冬が来ますね。クリスマスも。そういうのが好きです。』
人魚はいわゆるザルだった。
実家からこっそり持って来た山崎12年が3時間で空になっても、酔っ払っている様子が全くなかった。
弱いと思われるのが厭だという俺の小さなプライドは、本物の前ではあまりにも簡単にその事実が露呈された為、潰れてしまった。
人魚はコーヒーが飲めず、猫舌で、熱いものが飲めなかった。
真冬の氷入りアイスティーは、はたから見ると空々しいほど寒く見えて、なんとなくタンブラーを買ってやった。
クリスマスプレゼントと称して赤いステンレスの大きいのを買った。
人魚の手は結構大きく、タンブラーを持つと一番大きなサイズのそれが普通の大きさに見えた。
爪の面積が広かった。
何度かマニキュアを塗ってやったことがある。
自分は結構器用だということがわかった。
足の爪にも塗ってやった。
背を丸めて、足の爪だけを見つめて、濃い赤いマニキュアを塗った。
不思議な気持ちだった。
蔑まれているような、大切にされているような、憐れまれているような、あたたかく見守られているような、全部がないまぜになっていた。
それから、じわじわと興奮していった。
成り行きでも、突き上げる感じでもなく、じわじわと。
欲情した。
「トキ。」
呼び止められて振り向くと、タニが立っていた。
タニは正装だった。片手にはホテルの名が入った大きく角ばった紙袋が提げられている。
俺はアップルストアに用事があったので、銀座に出て来たのだ。
「何?結婚式?」
「うん。同期の。」
「…今のお前の社会人らしさは、俺の目には眩しすぎる…。」
「え?何で?え?無職?ハローワーク?」
「いや、3ヶ月休暇。」
「何それ、セレブ?」
「いや、会社にそういう制度があってさ。つっても無給よ。だからこっそりバイトしたりしてんの。」
「へぇ、いいな。」
「ハチスガは?元気してる?」
「ああ、あいつね。今絶賛失恋中。傷心旅行に出てるよ。」
「えー。漫画みてぇ。」
「銀次郎のとこの姉ちゃん、結婚したからね。」
「あいつずっと節子さん一筋だったの?ブレねぇな、何年ものよ、それ。」
「12年くらいじゃね?」
「あいつ、面白いね。面白いことに気付いてないとこがまた、面白いね。」
「うん。ずっと見てるけど飽きないよ。またみんなで飲み行こうよ。」
タニは高校の時の同級生だ。
だから、彼女のことを知っている。
同級生の話をしていたわけだから、彼女のことを云ってもよかったのだが、云わなかった。
何故か、まだ云わない方がいい、という気持ちが働いた。
大事にしたかったのか?
何を?
この関係を?
明日が早いから、といってタニは地下鉄の入り口へと歩いていった。
その背を見ながら、そう思った。
人魚は、ホテルの下によくある、結婚式プランを練るような場所のショーウィンドウに飾ってあるドレスを見るのが好きだった。
旅行先で酔っ払ってホテルに戻ってくると、ホテルのフロント以外はみな、電気が消えていて、ショーウィンドウのドレスが薄闇にひっそりと飾ってあるのが妙に寂しげに見えた。
人魚はそのショーウィンドウの前で唐突にしゃがみ込んで、じっと眺めていた。
ドレスの裾の広がっているところやビーズの刺繍を見ているのだ、と云った。
「着たいの?」
「足がスカートと触れ合う感触って素敵だから。ドレスだとどんなにいいかと思って。」
「シーツに触れるのは?」
俺は急いてそう訊いてしまい、人魚は怒って、
「どうせどこにも行けないし、いつだってやれるんだから。ちょっと静かにしてて。」
と云った。
俺は少し腹が立ったが、人魚が真剣な顔をしていたので、神妙にすることにして、隣に蹲み込んだ。
「着せてやろうか。」
詫びるような気持ちでそう云うと、人魚は、いい、と首を振った。
「着物でもいいよ。」
俺がそう続けると、人魚は云った。
「着物はね、昔、陸に上がった時に散々着たから、いい。あれがああいう胴の括れとか足の長さとか全然わからない作りなのはね、足になりきれなかった尾ひれや鱗を隠す為だったのよ。昔のね、先祖の知恵。」
俺は黙って聞いていた。
薄暗いホテルのロビーでは、おとぎ話は本当に聞こえた。
昼間、また近所の公園でベンチに座って、焙じ茶のあったかいのを飲んでいたら、彼女がセブンイレブンの袋を下げて歩いてくるのが見えた。
カーディガンの薄いピンクが安っぽく見えて、少しつまらない気持ちになった。
「トキくん。」
「会わないんじゃなかったの?」
「偶然だから、ノーカウント。」
「えー、それ、ありなの?」
「暇そうだね。」
「暇だからね。」
「これ、食べる?」
彼女はみたらし団子の3本入りパックをビニール袋から取り出して、寄越した。
「午後のお供なんじゃないの?それ。」
「いいの、1本だけあげる。」
「えー、1本?」
「なんかいいこと云ったら、もう1本おまけするわ。」
「面倒なこと云うなぁ。」
彼女は隣に座り、五目焼きそばを取り出した。
「え、それを外で食べるの?斬新。」
「なんで?」
「お弁当、とか、あったんじゃないの?もっと、こう、女子っぽいものが。」
「女子っぽいの?お弁当が?トキくんの発想の方が斬新じゃない?」
彼女は膝の上にハンカチを広げて、五目焼きそばを食べ始めた。
いい匂いがした。
腹が減ってきた。
「俺もそろそろなんか食おうかな。」
「みたらしあるでしょう。」
「みたらしはみたらしであって、昼飯じゃない。」
「健康的な発言でいいわ、そういうの。もう1本あげる。」
喜んでみたらしを2本たいらげてから、残りの焙じ茶も飲み干してしまった。
公園は一面に芝生が敷かれていて、あちこちに、ふさふさしたのや、小さいのや、大きいのや、やたら吠えるのや、かと思えば、じっとしている犬たちがいた。
その飼い主たちもいた。
遠くのベンチでは、腰の曲がったおばあさんが腰掛けるところだった。
晴れていて、空気が少しだけ冷たくて、気持ちが良かった。
人魚は公園が好きだった。
よく裸足になって芝生の上を歩いていた。
マクドナルドに寄って、ポテトのLサイズとバニラシェイクとダブルチーズバーガーと期間限定のバーガーとチキンナゲットをどっさり買って、公園で食べた。野菜がないことがどうも気になる俺は、カゴメの野菜ジュースを2パック付けるのを忘れなかった。
「そういうの、与えられた習慣って感じがして、不思議な気持ちになる。」
人魚はダブルチーズバーガーにかぶりつきながら、云った。
「与えられた習慣?」
「そう。だって、トキはいつも野菜ジュースを飲みなさいって、云われてたんでしょう?お父さんとか、お母さんに。だからそうやって、いつも野菜ジュースを買うのよね?」
「そういうことか。そうだよ。いや?」
「いやとかいいとかじゃない。不思議だと思う。きっとお父さんとかお母さんは、トキのおばあちゃんたちにそういうのを云われていたんでしょう。野菜を摂りなさいって。おばあちゃんももしかしたら言われていたのかもね。」
「普通でいいじゃない。」
「私はその繰り返しをじっと眺めているのよ。同じことを繰り返していくのを。海で下から太陽を見てると、とっても綺麗でしょう。いつまででも眺めていられるでしょう。波が止まることってないでしょう。いつまででも眺めていられるでしょう。似たような気持ちになる。私が何も変わらずにじっと海の中でそういうのを見ている間にも同じことが繰り返されているんだもの。」
「気の遠くなる話だな。」
「神様みたいな気になるわ。」
「ポテト、口の端についてるよ。バーベキューソースも。」
バニラシェイクを啜りながら、紙ナプキンを差し出した。
人魚は紙ナプキンで口を拭きながら、
「外で食べるマクドナルドってどうしていつもより美味しく感じるのかしら。」
と云った。
「言われなきゃやらなかったな、俺。」
「そう?」
「うん。思いつきもしなかったと思う。」
「本でね。見たの。『デッドエンドの思い出』っていう題名の本で、表紙がきれいだった。黄金色のいちょうの中を2人の子供が掛けている絵なの。」
「誰の本?」
「吉本ばなな。」
「読んだことない。」
「大体、トキは全然本読まないじゃない。漫画は読むけど。」
「どんな話?」
「短編集。ハンバーガーを公園で食べていて、とてもくつろいだ気持ちになって、それでそれを『あ、いま、しあわせかも。』って思うシーンがあるの。そこがすごく好きなの。」
「ふうん。」
じゃあ、今はどう?しあわせな感じなの?と思ったが、何故か、訊けなかった。
「この公園も秋はすごいよ。いちょうだから。この、公園を囲むように植えられている木が全部黄色になる。」
代わりにそう云ったが、秋まで一緒にいるんだよな?という気持ちがあることに気づいて、俄かに苦しくなった。
「でも、いちょうって実際その時期になると銀杏くさくてたまらないのよね。」
人魚は残りのチキンナゲットに手を伸ばしながら、俺の胸の内などに気づいている様子など微塵も見せずにそう云った。
でも、本当は気付いていたんだと思う。
人魚は、
波を読むように人の心を読むのが、
得意だった。
「トキくん。」
呼ばれて隣を見たら、彼女がつまらなさそうに俺の顔を見ていた。
半袖の白いブラウスになっていたのを見て、その腕が少し焼けているのを見て、今、に戻ってきた。
安っぽいピンクのカーディガンは、彼女が持ってきたトートバッグにしまわれていた。
「トキくんはすぐにどこか行っちゃうのね。」
「よく云われる。」
「昔からそういうところあったわ。」
「昔?そう?」
「うん。」
「ぼぅっとしてるからな。」
「いつも何か考えてるんでしょう。ほんとは。」
彼女はトートバッグからベージュのサーモスの水筒を取り出して一口飲んだ。
何かの花の香りがした。
「いや、考えてはいない。思い出してるだけ。」
「そう。」
彼女はまた、お茶を飲もうとして、やめた。
何茶か訊くと、ジャスミン茶だと答えた。
一口欲しいと云うと、すぐに注いで寄越した。
まだあたたかいそれに俺が口をつけると同時に、彼女はぽつりと云った。
「そういう状態は、あと3年ぐらい続くわ。」
「え?」
彼女は俺が飲み終わったのを確認してから、蓋を受け取り、自分で注ぎ直して、ジャスミン茶を静かに啜った。
「私が会ったのは、男の人魚だった。私が出会った時は、178だった。」
俺は彼女の顔を、ゆっくりと見た。
彼女はこちらを見なかった。
嘘をつかれているのかと思って、そのままじっと見ていたら、彼女は小さく息を吐いて、それから少しだけ悲しそうに笑って、俺を見た。
「身長じゃないわ、年齢よ。」
俺は、ものすごく間の抜けた顔をしていたと思う。
彼女にも、なんて顔してるの、と云われた。
「彼が海に帰った日、私は死ぬ気で、本当に死んでもいいって思って、追いかけた。彼は別の女と手を繋いで海に入るところで、はたから見るとまるで心中してるのかと思うような場面だったけど、私にはわかった。見つけたんだって。彼はいつも云ってた。探している人がいるって。恋人かって訊いたわ。彼は違うと云った。家族だったって云ってた。寝言でいつもその子の名前を呼んでた。多分ね。何語かわからない言葉だったから、確証はないけど、多分、名前だったと思う。」
俺は、両手で顔を覆って、
呻くような声で、
「何で…。」
というのが、精一杯だった。
何で知ってるんだ。
何で黙ってたんだ。
何で今、此処に二人でいるのだ。
全てを込めての
「何で」
だった。
「彼は云ってたわ。人魚と一度でも寝ると、もう人間の誰とも寝ることが出来なくなるだろうって。そういう風に出来ているんだって。私は彼の傷が人よりも早く治るのや、お風呂がいつも水風呂で、入ると足が鱗に変わるのや、人間には聴き取りにくい掠れたような声で祈りを捧げていたりするのを、ずっと見てきた。嘘やお伽話だと思った事は一度もなかった。頭がおかしくなってるのだとしても、彼がいるなら、別にいいと思った。」
そこで彼女は徐ろに立ち上がり、サーモスをトートバッグにしまって云った。
「時間だわ。」
「何の?」
俺はかなり情け無い声を出して、彼女を見上げた。
彼女は俺を見て、吹き出した。
「トキくん、私、仕事中なのよ。昼休みが終わりそうなの。」
「あ、そう。」
少し考えるようにして、彼女はトートバッグからカーディガンを出して、羽織ってから、
「私は、人間だから、消えないわ。今の所ね。出来ない者同士、また今度、会いましょう。」
と、云った。
俺は、去り際の彼女の背を見て、急に思い出して、
「美波。」
と、きちんと高校の時呼んでいた響きで持って、呼び止めた。
彼女は振り返って、まじまじと俺を見た。
「名前。全然呼ばないから、本当は忘れてるんだと思ってたわ。」
「うん。今、思い出した。」
「トキくんは正直ね。華魚でいいわよ。」
「カナ。」
「何?水原鯨(トキ)くん」
「今日、何時に終わんの?」
「…今日、生理だから、無理だけど。」
俺とカナは、一瞬真面目な顔をして見つめ合ったが、
俺の方が堪え切れずに、吹き出した。
「マーメイドジョーク。」
カナは笑いながら、そう云った。
俺は、
「莫迦だろ、あんた。」
と云った。
残された者同士なのだ、俺たちは。
何かのその後、なのだ。
俺たちが今後、
何処まで、
どんな風に、
流れていくのかを、
見てみたいと思った。
流されるのではなく、流れていきたいと、
そう思った。
この記事は投げ銭方式です。
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しろくまʕ ・ω・ )はなまめとわし(*´ω`*)ヨシコンヌがお伝えしたい「かわいい」「おいしい」「たのしい」「愛しい」「すごい」ものについて、書いています。読んでくださってありがとうございます!