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画家の心 美の追求 第82回「ギュスター・クールベ ノルマンディーの海岸 1872-75年」

 ギュスター・クールベ は、バロックからロマン主義へ、そしてレアリスム(フラン語読み、英語ではリアリズム)へと大きく時代を動かした偉大な画家のひとりだ。
 レアリスム、日本語では「写実主義」と解され、わたしたち日本人にとってもっとも馴染み深い画法のひとつではないだろうか。

 ではこの写実主義を最初に提唱したクールベとは、どんな画家だったのだろうか。

模写「ノルマンディーの海岸」

 クールベは1819年南フランスの山深い、スイスとの国境に近いオルナン村の裕福な家庭に生まれた。1841年21歳でパリに出て、ルーブル美術館で模写に励み画力を磨いた。
 1845年、26歳のときサロンに入選し、画家デビューをはたすとその後は順調に出世街道を歩んでいた。

 1855年、クールベは36歳になっており、気力画力ともに充実していた。そして、第2回万国博覧会に、「オルナンの埋葬」(歴史画)と、「画家のアトリエ」(寓意画)の6メートルを超す2つの大作を満を持して持ち込んだ。
 ところがクールベにとってとんでもない事件が起きる。
 それは2作品とも万博側の美術協会は受け取りを拒否したのだ。

 その理由は、歴史画ならば、偉大な歴史的事件、古代の神々、殉教者、英雄、帝王などを理想化したものであり、寓意画ならば愛、信仰、真実、死を表現するものでなければならない。ところが「画家のアトリエ」はクールベ自身のアトリエでのこれまでの出来事を表したものに過ぎず、「オルナンの埋葬」に至っては自分の故郷、しかも田舎での葬儀を描いただけと受け取られたからだ。
 当時の美術協会(サロン)から見れば当然の判断だった。

 とこの受け取り拒否は、クールベにとってはとんでもないことだと判断した。それはこの2作品は自身の生涯を通じて最高傑作になると確信するほどの自信作であったからだ。

 このサロン側の決定に対してクールベの心に怒りの火が付いた。この傑作を理解できない協会員やサロンが新しい絵画や画家の発展育成を拒むものであり、クールベはサロンに対して強い不満を抱くことになる。

 その対抗策としてクールベは、万博会場の前に小屋を作り「ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン」という看板を立て個人の展覧会を開いた。これが世界初の個展だと言われている。
 この個展の入り、人気はどうだったのか詳細は不明だが、うわさ好きのパリ市民にとって格好の材料となったに違いなく、思惑以上に成功したのではないだろうか。

 そしてこのとき出した目録に、クールベは「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」と記し、暗にサロンの、これまでの絵画の在り方を批判した。
 後に「レアリスム宣言」と革命がごときに評価されるようになる。
 クールベと仲間たちはこの成功を糧にコミューン美術協会を設立させ、クールベはその議長に就任する。やがてこの一派は先鋭化していくことになる。

 1870年ヴァンドーム広場にある円柱、1702年にルイ14世の栄光を称えるために設置された、は芸術的価値がない、戦争と征服を表現するなどとして破壊することを求めた。もちろん却下されたが、1871年5月8日に破壊された。
 この騒動ののちパリ・コミューンは第3共和政初代大統領アドルフ・ティエールにより攻撃を受け、クールベは逮捕され投獄される。さらに膨大な円柱修復費用を請求されることになり、クールベは破産した。

 1872年刑期を終えるとクールベは故郷のオルナンに戻るが、パトロンや支持者たちから多くの絵の注文が届く。これらの注文は円柱修復費用への義援金だったのではないだろうか。
 主な注文主は、「画家のアトリエ」に集っていた知人、友人、仲間たちだろう。クールベは政治的には失敗したが、それでも多くの良き仲間に恵まれていたのだろう。

 さてこの絵のはフランスの北の果て、イギリス海峡に面した寂しいノルマンディーの海岸だ。ここは一年を通じて寒い地域だ。クールベはパリの街から故郷オルナンに戻る直前の1872年に何故この地に立ち寄ったのだろうか。向かう方向はまったく逆だというのに。
 政治的に失敗し、多額の借金を抱え失意のどん底だったに違いない。そんな己自身の心を癒すためだったのだろうか、以前訪れたことのあるこの海岸で、その時は気のいい仲間たちと共に避暑にやって来た。楽しかったそんな思いに浸りながら写生を終えると故郷へと急ぎ向かう。そして政府からのさらなる追求の手が伸びていたのだろう、隣国スイスへと亡命した。

 この絵はノルマンディーで写生を終え逃避行中も携行していたに違いなく、完成したのは3年後の1875年。スイスでの滞在先であった。
 クールベはこの後も絵を描き続けていたのか資料には残されていない。遺作だとすれば、クールベはこの絵を描き終えると絵筆を折ったのかもしれない。
 そして2年後の1877年、すぐ隣にある故郷に戻ることもなく、スイスでの滞在先で失意のうちに亡くなったという。58年の波乱に満ちた人生だった。
 そうではあったがクールベの戦いは、マネやモネら次世代の画家たちに引き継がれていくことになる。

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